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文献名1霊界物語 第38巻 舎身活躍 丑の巻
文献名2第2篇 光風霽月よみ(新仮名遣い)こうふうせいげつ
文献名3第8章 三ツ巴〔1045〕よみ(新仮名遣い)みつどもえ
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-11-02 12:49:58
あらすじ
明治三十二年十月十五日、足立、四方、中村の三人は全権大使として綾部にやってきて、自分を本宮山上に誘い出した。三人は、自分たちは役員信者たちの代表としてやってきたのだと、自分に対して退去を勧告してきた。

足立は、教祖様を無学の紙屑拾いの婆さん、自分を牛乳屋と嘲弄し、今後は金光教で綾部の教会の面倒を見るからと侮辱している。中村も自分を悪罵し、怒りで退散させようとしている。

喜楽は黙って聞いていたが、とうとう堪忍袋がこらえきれなくなってきた頃に、出口澄子が一人で登ってきて、教祖様がたいへんに探しているからと迎えに来た。これ幸いと、自分は出口澄子と一緒に山を降って行った。

一時間ほどして、足立ら三人も広間にやっていた。喜楽はここを退去すべきかどうか思案していたが、直日の御魂に省みて、このめちゃくちゃな状態を打ち捨てて行くわけにはいかないと思い直した。

教祖様と四方平蔵氏がふすまをあけて入ってきて、喜楽に、神様のご都合で引き寄せられた方だから、帰ることはまかりならない、と言い渡した。

役員や信者がどんなに反対しても、自分(教祖)と上田先生の二人さえ残れば神様のお仕組みは成就するから、しっかり上田先生の言うことを聞いて他の役員に惑わされてはならない、と四方平蔵氏に説き諭した。

そして、別派を作りたいなら勝手に開くようにと言い渡し、自分(教祖)と上田先生と四方平蔵氏の三人はどこまでもここを動かない決心である、と宣言した。これ以降、四方平蔵氏は陰に陽に喜楽を庇護してくれるようになり、ようやく大本の基礎ができ始めたのである。

今度は京都の谷口房次郎という者が、霊学の修行で天眼通が開け、慢心して四方春蔵や喜楽を押しのけて、金明会の次期教主になろうと野心を起こし、教祖様に直談判に来た。

自分が次期教主になれば、金明会の教えは一年とたたずに日本全国に広がる、と説く谷口に対し、教祖様は、誠というものはそんなものではない、と叱りつけた。そして、自分はどこまでも上田先生と教えを開くつもりだからと、逆に谷口に退去を命じた。

谷口は上谷に行って、次の上田反対運動の作戦を練っていた。

また足立正信氏も、金明会の勢いが将来的に伸びるだろうと踏んで、教祖様の娘婿となって次期教主となることをもくろんでいた。四方平蔵氏から綾部の金神さんの噂を聞いた金光教は、出口教祖の人気を利用して金光教の教師にしようとし、足立氏が受け持ち教師として送られてきたとう経緯の人であった。

中村竹蔵は、難病を助けてもらって熱心な信者になった。最初から教祖様の信者であったが、次第に慢心を起こし、自分の女房を離縁して教祖様の娘婿になろうと企んでいた。

四方春蔵は上谷の財産家の息子であったが、邪神がうつって野心を起こし、弟に後を譲って自分は教祖様の娘婿になろうと画策していた。

足立、中村、四方春蔵は三つ巴となって暗躍していたが、そこに突然、喜楽が世継ぎと神様から示されたので、三派は喜楽を攻撃することになったのである。そこに谷口がまた出てきて野心を抱いて運動をする。

喜楽や澄子はそんなことには構わずに一意専心に霊学の発達と筆先の研究に傾注していた。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年10月16日(旧08月26日) 口述場所 筆録者松村真澄 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年4月3日 愛善世界社版83頁 八幡書店版第7輯 188頁 修補版 校定版83頁 普及版41頁 初版 ページ備考
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本文
 明治三十二年十月十五日の事であつた。足立、四方、中村の三人は、上谷の修行場にて、神懸一統鳩首謀議の結果、喜楽に対し、綾部退却の勧告をなさむと、全権公使格で何喰はぬ顔して、金明会へ帰り来り、言巧みに本宮山上に誘ひ出し、第一番に四方春三は口を開いて云ふ。
四方『上田先生に申上げますが、夜前上谷の私の宅で、金明会の役員一同が集会いたし、相談の結果、先生に一日も早う綾部を立のいて貰ふ事になりました。私等三人に対し、皆の役員サンから、先生に対し談判をしてくれと頼まれ、止むを得ず三人が出て来ましたのですから、どうぞシツカリ聞いて下され。永らく霊学を教へて貰うた先生に対して、すげなう帰つて下さいと云ふ事は、弟子の私としては誠に心苦くて気の毒でたまりませぬけれど、先生が綾部に厶ると、第一教祖さまの教の邪魔になり、お仕組が成就しませぬので、役員信者の心がハダハダになつて、如何しても一致しませぬから、どうぞ一年程穴太へ帰つて下され。其上で又御縁がありましたら、皆が相談の上、こちらの方からお迎へに参ります。実際の事を言へば、先生が綾部へお出でるのが一二年許り早すぎました』
と立退き勧告を臆面もなくやつて居る。喜楽は黙然として何の答もなく、春三の顔を穴のあく程見つめて少しく笑うてゐると、春三は気味悪相に真青な顔をして俯むいて首を頻りに振つてゐる。さうすると足立正信が全権委員顔をして曰ふ。
足立『足立が今日先生にお話に参つたのは、一個人の考へではありませぬ。先づ第一に艮の金神さまを始め、役員信者一同の代表者として、参つたのですから、あなたも其お考へで聞いて頂かねばなりませぬぞ。抑も綾部には、天地金の神さまのお道を開く、結構な金光教会所があつたのを、出口お直さまが気をいらつて、四方平蔵サンとひそかに相談して、吾々始め役員信者には一言の相談もなく、派の違ふ霊学の先生を呼よせて、とうとう金光教会を丸潰しにしられたのは、お前サンも御存じの通りですが、金光教は立派な公認の神道本局の直轄教会で、天下に憚らず布教伝道に従事してゐるお道です。かう申すと済みませぬが、上田サンの立てた金明霊学会は、其筋の認可もうけずに、偉相に布教してゐられても、到底、駄目です。出口お直さまや四方平蔵サン、お前サンの三人位が何程骨を折つても、瞬く内に其筋から叩き潰されて了ひますよ。さうなつてはお前サンも皆サンに合はす顔がないから、足許の明かい内に一時も早くお帰りなされ。今こそ教祖だとか、会長だとか云うてゐられますが元を糺せば紙屑買の無学の婆アサンや、牛乳屋位が、どれ丈気張つて見ても、到底お話にならぬから、花のある内にここを引上げなされ。又お直さまの方は金光教会の方で大切に世話をしますから、今の内に決心をきめて確かな御返答を願ひます。お前サン、これ丈皆の者に嫌はれて居つても綾部を帰るのがおいやですか。よくよくお前サンも行く所のない困つた人足と見えますな。腹が立ちますかなア。腹が立つならこれ見たかで、一つこんな田舎ではなく、立派な大都会の中央で、一奮発して教会でも立てて御覧。イヤ併し人間と云ふ者は末を見な分らぬから何ぼ訳の分らぬお前サンでも、又犬も歩けや棒に当ると云ふ事があるよつて、どんな偉い者に、此先に於てなれぬとも限りませぬワイ』
と嘲弄的に責かける。喜楽は余りの侮辱と暴言に何の答もなく、黙然として俯いてゐた。足立は心地よげに微笑をうかべ、喜楽を尻目にかけて腕をふり乍ら、コツコツと細い坂路を降つて行く。中村竹造はニタニタ笑ひ乍ら、
中村『上田サン、お前サンは元を糺せば百姓の蛙切り、少し出世して牛乳屋になつてゐたのぢやありませぬか。それに何ぞや、霊学だとか審神者ぢやとか云つて、草深い田舎へ人をだましに来ても、何時迄も尻尾が見えずには居りませぬぞ。なんぼ綾部が山家だと云うても、中には目のあいた者が居りますでな。百姓の伜が大それた神道家になるなんて、そんな謀反を起してもだめですよ。ヤツパリ蚯蚓切りの蛙飛ばしは、どこともなく土臭い所がある。なんぼ綾部の小都会でも、お前サン位に自由自在にしられて、喜んでゐるやうな馬鹿者はありませぬぞや。そんな性に合はぬ事するより、一日も早く穴太へ帰つて元のお百姓をしなさい。蛙の子のお玉杓子は、何程鯰の子によく似て居つても、チツと大きうなりかけると、手が生えたり、足がはえたり、いつのまにやら尻尾が切れて、ヤツパリ先祖譲りの糞蛙によりなれませぬぞや。どうしても鯰になれぬのは天地の道理ぢや。私も今年で九年振、天地金の大神さまのお道を学び、八年の間は艮の金神さまのお筆先を朝から晩まで拝読いて居つても、まだ満足に人に布教することが出来ぬ位むつかしいものだのに、お前サンは去年の春まで、蛙飛ばしや牛乳搾りをして居り乍ら、今から審神者になるの、神懸りを人に教へるといふのはチツと時節が早すぎます。一日も早うどつかへ行つて、モツトモツト神さまのお道の勉強をして来なさい。お前サンの修行が出来て、立派な人になりなさつたら、又お世話になるかも知れませぬ。綾部には四方春三サンのやうな日本一の神懸が出来てゐる上に、福島大先生のやうな生神さまが、時節参りて現はれました。お前サンも御存じだらうが、二三日前にも穴太のお母アさまから、一日も早う帰つて百姓の手伝ひをしてくれ、いつまでもウロウロしてをる年ぢやないというて、手紙が来たぢやありませぬか。今お前サンが快う帰つて下されば、天地の大神さまへもお詫が叶ひませうし、大勢の役員や神懸りサンも大喜び、第一穴太のお母アさまに孝行ぢや。何程教祖さまが引ぱりなさつても、大勢の者にこれ程厭がられても、ヤツパリ綾部に居りたいのですか。見かけにもよらぬ卑怯未練な御方ぢやなア。よつ程よい腰抜だと皆が蔭で云うて居りますで』
と口を極めて嘲罵をきわめ、立腹させて喜楽を追ひ帰すべく手段をめぐらしてゐる。喜楽の胸はわき返る計りになつた。最早勘忍袋の緒が切れやうとする一刹那、出口澄子がエチエチと本宮山へ登つて来て、
澄子『先生、最前から教祖さまが、先生のお姿が見えぬと云うて、大変に心配をして居られますので、平蔵サンや祐助サンがそこら中を捜して居られます。私は本宮山へ上られたに違ないと思うて、お迎へに来ました。サア早う帰つて、教祖さまがお待兼ですから、一所に御飯をおあがりなされ』
と促すのをよい機会に、喜楽は四方、中村を後に残して本宮山を下つて行く。二人は後姿を見送つて、手を切に打叩き、
『ワハイ ワハイ、能う似合ますで、御夫婦万歳!』
などと冷かしてゐる。まだ澄子とは其時は夫婦でも何でもない、無関係の仲であつた。然るに両人は妙な所へ気をまはして笑うて居る。一時間程経つてから、以前の三人は落つかぬ顔して広間へ帰つて来た。
 喜楽は一室に端坐し、首を傾けて一先づここを退去せむか、と思案にくれてゐた。が直日の霊に省みて……イヤイヤ目下の金明会の役員や、神懸の状態を見捨てて帰る訳にも行かぬ、自分が今帰つたならば、何も彼もメチヤメチヤになつて了うだらう、どこ迄も忍耐に忍耐を重ね、今一度無念を怺へて、彼等の精神を鎮定した上、進退を決しやうかと思うてゐる折しも、教祖は平蔵氏と共に、静かに襖を押あけ入り来り、自分の前に座を占めて、教祖は先づ第一に言をかけ、
教祖『先生、あなたは穴太へ帰る積で思案をしてゐられるやうだが、それはなりませぬ。神さまの御都合で引よせられたお方ぢやから、どんなことがあつても綾部を立退くことは出来ませぬぞや。御苦労さまで厶いますけれど、神さまの為にどこまでも辛抱して貰はねば、肝腎の御仕組が成就しませぬから、役員や信者が反対して、一人も寄りつかぬやうになつても、出口直と先生と二人さへ此広間に居れば、神さまのお仕組は立派に成就すると、艮の金神が仰有いますから、どんな難儀なことが出て来ても、何ほど反対があつても此処を離れてはいけませぬ。平蔵サン、チとしつかりして下され。今先生に申した通り、神さまは如何しても御放しなさらぬから、平蔵サン、チとシヤンとして先生の教を聞き、外の神懸や役員の言ふ事に迷うては可けませぬ。金光さまの教が開きたい人は勝手に開いたが宜しい。私等三人はどこまでも動かぬ決心をせねばなりませぬから、其お積でゐて下され。先生くれぐれも頼みますぜ』
と云ひ棄てて自分の居間へ引取られた。それから四方平蔵の態度が一変して、陰に陽に上田を庇護する事となり、漸く大本の基礎が固まりかけたのである。
 元金光教会の教師であつた土田雄弘は、喜楽の霊学の力に感じ京都に上り、旧友などを集めて金明会の支部を、塩小路七条下ル谷口房次郎の宅で開設し、一同協議の上に谷口熊吉なる者を、綾部へ修行の為に差向けた。喜楽の熱心なる教に、二三週間の後は、一通り霊術を覚え、第一に天眼通が利くやうになつて来た。そこで当人は非常に慢心を起し、自分位霊術に到達したものはない、四方春三位は物の数でもない、過去現在未来に通ずるやうになつたのは、自分の天賦の霊能が然らしむる所であらうと、得々として教祖の前に出で、厚顔にも、
谷口『此谷口が神から選まれた因縁の身魂で、将来大本の教主になるべきものでせう。然らざれば、僅二三週間の修行でこんなに上達する事は出来ますまい。必ず昔からの因縁と神助の然らしむる所に違有りますまい。今日以後は及ばず乍ら、私が御用をつとめ、天晴れ艮の金神さまを表へあらはし、教主のつとめを致す考へでありますから、上田サンには今まで御世話になつた御礼に、相当の金を与へて、穴太へ御帰しなさつた方がよろしからう』
と教祖の前で恐気もなく述べ立てた。教祖は余りの事に呆れて言もなく、谷口の顔をジツと見つめてゐられた。谷口はモドかし相に、言せわしく、
谷口『教祖様、どちらになされますか。私にも御返答次第で一つ考へがあります。谷口熊吉が金明会をかまへば、艮の金神さまの御教は一年たたぬ内に日本国中に拡まり、金光教会の全部はキツと綾部の艮の金神さまに帰順いたさせます。かう申すと慢心のやうで厶いますが、上田サンの様に、役員信者一般に受けが悪いやうな人が居つては大本が潰れるより外はありませぬ。とかく斯ういふ事は人気が肝腎であります。役員も信者も神懸も、上田サンが何時までも綾部に居すわつてるやうなら一人もよりつかぬと云つて、昨夜も上谷の四方春三サンとこで相談がきまりました。私は大本の大事を思ひ、教祖さまのお身の上を思ふ余り、何も彼も隠さず申上げます。一体教祖さまは、上田サンを買被つてゐられますと皆の者が云うてゐます』
と野心を包蔵する谷口は、教祖がどういはれるかと、其御返答を待かね顔であつた。
 教祖は直に答へて、
教祖『谷口サン、それは誠に結構な思召しで厶いますな、皆さまの御志は神さまもさぞ御喜びで厶いませう。乍併誠といふ者はそんなものぢやありませぬ。お前サンも上田サンに、仮令三日でも教へて貰うたら先生に違なからう。其先生を追出して自分が後にすわるといふやうな御精神の御方は私は嫌です。誠といふものはそんな易いものとは違ひますで、私はどこ迄も上田サンと手を曳いて、神さまの御用をする覚悟であります。そんな事を言ふお方は、どうぞ一日も早う帰つて下され』
とあべこべに退却を請求され、目算がガラリと外れた谷口は青い顔して、首尾悪相に教祖の前を下り、すぐさま上谷へかけつけ、第二の作戦計画について大運動を始めて居た。
 教祖の筆先に、
『御用継は末子の澄子と定まりたぞよ』
と繰返し繰返し現はれてゐるので、第一に出口の養子たらむとの野心を起してゐたのは、金光教会の足立正信氏であつた。彼は艮の金神さまの教が将来発達するに違ない、さうすれば第一出口の娘の婿となつておけば、将来の権利を握る事が出来るといふので、陰に陽に教祖に近付きつつあつたのである。此男は元は淀の藩士で、小学校の教員を勤めてゐたが、そこに金光教会所が設けられてあつた、其教会へ暇ある毎に通うて受持教師に理屈をふきかけ、いろいろと妨害をなし、とうとう其教会をメチヤメチヤに叩きつぶして了うた男である。それを上級教会の、京都島原支所長杉田政次郎が甘く自分の手元へ引入れ、相当の俸給をやつて事務員に使うてゐた。
 出口教祖が始めて神懸になられた時、四方平蔵氏が妻君と共に、南桑田の土田村といふ所へ行つて居つた。其時亀岡の金光教会の大橋亀次郎といふ教師について、金光教の教を聞いてゐた関係上から、教祖の事を亀岡の大橋に話をしてみた。さうすると大橋は、艮の金神というて信者が沢山によつて来る相だから、何とかして、其出口お直サンを金光教会の教師となし、亀岡の教会の部下として、綾部に一つ教会を立てたいものだといふのが手蔓となり西原の西村文右衛門といふ男が教祖に難病を助けて貰うた関係上、亀岡の教会へ行つて大橋亀次郎から、金光教の剣先を下げて頂き、西村文右衛門氏が背中に負うて、大島景僕といふ人の離れの六畳を借つて、始めて金光サンを祭つたのである。其六畳のはなれは今大本に保存されてある。大橋亀次郎は、自分の弟子の奥村定次郎といふ男を遣はし、教師として道を開かせ、出口直子をお給仕役の様にして道を開いて居つた。乍併出口教祖はそんな事で満足しては居られず、
教祖『自分は金光教をひらくのではない、艮の金神さまを世に出さねばならぬ役だから……』
と云つて、奥村定次郎に、幾度となくお筆先を出して警告されたけれど、上級教会を憚つて、如何しても艮の金神さまを表にせうとはせず、とうとういろいろと官へ手続きをして、福知山金光教会支所長青木松之助の出張所といふ名で、東四辻の古い家を借つて、そこに道場を開き、奥村定次郎が受持教師となつて、金光教を開いて居つた。
 出口教祖は神さまの命令によつて、奥村に別れ、裏町の土蔵を借つて、そこで神さまを祀つて、筆先をかいてゐられた。金光教会はだんだん淋しくなり、火が消えたやうになつて了ひ奥村氏は止むを得ず夜逃げをして了うた。これも出口教祖が……艮の金神の言ふ事をきかねば、夜の間に泣きもつて逃げて帰らねばならぬぞよ……と注意しておかれた通りになつたのである。其後へ島原の杉田氏から、足立正信を受持教師として綾部の教会へよこしたのであつた。
 次に中村竹造といふ男は、本町の播磨屋というて、古物商をやつてゐたが、始めから教祖さまに従ひ、難病を助けて貰ふてから熱心な信者となり、筆先の大熱心者であつた。これも何時の間にか慢心が出て来て、自分の女房を離縁し、出口の娘を嫁に貰はうと考へてゐたのである。
 次に四方春三は、上谷で相当な財産家の総領息子で、邪神が憑つた結果、弟に後をゆづり、相当の財産を持つて出口家へ養子に入り込まうと、幾度となく申込んで居たのである。斯くの如く三人の養子候補者が、手をかへ品を替へ暗中飛躍を試みて居た有様は、恰も古事記にある八十神が八上姫を娶らむとして争奪に余日なきと同じことであつた。足立正信は塩見、四方の二女を参謀として、教祖に取入り、それとはなしに二ケ年間も根気よく運動してゐたといふ事である。又中村氏は四方源之助、村上清次郎を参謀として、これも二三年間不断の活動をつづけてゐた。四方春三は自ら少々の財富力を楯に単独運動をやつて、自分は十中の九まで最早成功したものと信じ、互に三人が三巴となつて隙を伺うてゐる。そこへ突然喜楽を神さまから、大本の御用つぎと致すぞよと示されたので三人の不平は言はず語らず一時に爆発して、喜楽に対しいろいろの圧迫を加へ、悪罵を試み、百方妨害に着手する事となつたのである。
 又もや谷口熊吉が出て来て、野心を抱きいろいろの運動を開始する。喜楽も澄子もそんな事は夢にも知らず、何事も頓着なく、一意専心に霊学の発達と筆先の研究とに、心意を傾注してゐたのである。
(大正一一・一〇・一六 旧八・二六 松村真澄録)
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