明治三十四年の十月ごろの話である。警察署から毎日のように、宗教として認可を得なければ布教を許さないと言ってきた。明治二十二年の憲法発布で信教の自由が許されて以来、そんなことはない、と反論しても承知しない。
しまいには入り口に巡査を張り番させるようになり、信者が来なくなってしまった。教祖様は神様に伺って、警察の言うことは取り合わないように、と申し渡したが、警察の干渉はますます激しくなるので、教祖様へは内密にして静岡の稲荷講社の長沢翁に相談に行った。
教祖様はこれを聞いて怒り、弥仙山の中腹の社にお隠れになってしまった。自分は何も知らずに、長沢翁と相談したとおり京都で宗教法人の手続きをしようとしたが、印形がひとつ足りない。
そこで連れの者を綾部に使いに出し、自分は京都に残って布教をしていた。しかし使いの者は一向に戻ってこず、綾部から五人の信者がやってきて、京都でしばらく稲荷縛りをしようという。
そこで稲荷下げを縛って歩いていたが、あるところでインチキ託宣の化けの皮をはいだところ、そこの稲荷の信者と喧嘩になり、向こうはゴロツキも呼んできて大騒ぎになった。すると五人の信者はいつのまにか向こうについてしまった。
しかし、なぜか稲荷下げの陣営は、味方のゴロツキと喜楽を取り違え、金明会の五人と味方のはずのゴロツキを打ちすえてしまった。喜楽は駐在所に逃げ込んでかくまってもらい、そこを出るときに正体がばれそうになったが、京都の侠客に送ってもらい、無事に綾部に着いた。
帰ってみると、中村や四方春蔵が自分の荷物をひっくくって片づけてしまっている。そして教祖様は弥仙山の社に勝手にこもったということで、駐在所に引っ張られていた。
喜楽が駐在所に駆け付けて、代わりに尋問を受けた。信教の自由を盾に尋問に答えて、その場は帰してもらうことになった。実際には、教祖様は社の神主に許可を取って籠ったのであって、勝手に社に入ったわけではなかったのであった。
弥仙山籠りの件はこれで方が付いたが、幹部連中が上田は悪神だと言ってやってきてしきりに喜楽を困らせた。