喜楽は到底、教祖様の心言行を述べるほどの器ではないが、一部分にもせよ教祖の実行されたことを述べておかなくては、それらを土中に埋没するごときものであるから、冠島にお渡りになった事実の大要を述べておく。
日清戦争の後、義和団の乱が起こり、日本も鎮圧軍に加わった。この舞台において神国神軍の武勇を現し列強の侮りを防ぐ必要がある、という神勅を得て、教祖は六十五歳の老躯を押して、丹後沖の孤島・冠島に神国勝利の祈願をするために舞鶴にやってきた。
共としては自分、出口澄子、四方平蔵、木下慶太郎の四名であった。舟を雇って渡ろうとしたとき、天候がにわかに悪くなって船宿の主人は出向を止めたが、教祖は聞かない。
木下慶太郎が船頭二人を説得して連れてきて、半里でも漕げたら全部の賃金を払うとまで言い、ようやく出航することを得た。
博奕ケ崎まで来ると雨は晴れ、風は凪いで空には満点の星が現れた。冠島の島影が見え始めたころ、東の空に茜が指して夜が明けてきた。舟は無事に島に安着した。
教祖は波打ち際で禊をなし、島の老人島神社にて治国平天下安民の祈願をこらした。帰路は波も静かに舞鶴港に立ち返り、綾部に帰って数多の信者に迎えられた。