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文献名1霊界物語 第38巻 舎身活躍 丑の巻
文献名2第3篇 冒険神験よみ(新仮名遣い)ぼうけんしんけん
文献名3第16章 禁猟区〔1053〕よみ(新仮名遣い)きんりょうく
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-11-06 11:12:51
あらすじ
農作業の忙しい盛りの明治四十二年六月二十一日、喜楽、梅田柳月、大槻伝吉の三人は冠島・沓島参拝に出立した。しかし海は荒れており、頼んだ水夫も今は冠島の明神が御渡海される日だからと舟を出そうとしない。

喜楽の説得に、水夫はしぶしぶ、明朝一時まで天気を待つことになった。時間になると水夫たちがやってきたが、案の定天気は治まっている。二時に出港して、いつもは十二時間はかかる航海が、四時間足らずの六時前に着いた。

喜楽は冠装束いかめしく神前に進み、供物を献じて祝詞を奏上し、拝礼した。綾部から持ってきた石と、神前の丸石を一個交換して頂戴した。

祭礼で泊まり込んでいた氏子たちの誘いを厚く感謝しつつ断って、すぐに船着き場に戻っていった。昨年来、名木の冠島桑が何者かに盗伐されたり、鯖鳥が密猟されて激減したりといった事件を、水夫が悲しそうに物語る。

続いて舟は沓島の釣鐘岩の下に漕ぎつけた。明治三十四年、出口教祖は三十五名教え子を引き連れて参拝し、天岩戸の産水と竜宮館の真清水を海原に散布し給い、祈願をされた。

教祖は世界平和のため、日東帝国の国威宣揚のために祈願をさせ給うたのである。水夫に頼んで舟をつけてもらい、岩をかき登った。

到着早々癪に障ったのは、かかる神聖なる神島にまで密猟者が入り込み、平地にわら小屋を結んで鳥網を張回している。しきりにアホウドリを捕獲していたが、教服姿の自分たちを見てあわてて逃げだした。

残っていた一人を招いて、このような神域での危険な殺生商売をやめるようにと懇切に説いたが、耳に入りそうな気配はない。裁判官でなくて安心した、と口走るのが関の山であった。

昨年来、出口教祖は冠島・沓島の密猟を嘆き、鳥族がいたづらに生命を奪われることを憐み、祈願を御執行されていた。本日は満願の日のため、自分たちを特に御派遣になったのである。

不思議にも、明治四十二年六月二十二日、京都府の告示にてこの両島を含む地域が禁猟区域となったのである。

十年以前に出口教祖が建設せられた神祠は半ば朽廃し、来春までに造営せんことを神前に祈願宣誓した。それから自分たちはお籠りの岩に歩を進めた。

見れば上は絶壁に隔てられ、眼下は深き谷底に海水が青くただよっていてものすごい。ここに教祖の真筆をもって歴然と神の御名を記されている。改めて教祖の豪胆と熱誠に感じて拍手九拝、感嘆の声が口をついて出てきた。

大槻伝吉は、教祖と五野市太郎氏と三人で、十三日間静座して日露戦争全勝祈願をこらしたときの思い出を語った。舟人たちも、教祖がこんな無人島で荒行をされた思い出を話している。

正午に帰路につき、二十二日の午後四時、舞鶴の大丹生屋に安着した。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年10月17日(旧08月27日) 口述場所 筆録者松村真澄 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年4月3日 愛善世界社版165頁 八幡書店版第7輯 220頁 修補版 校定版169頁 普及版87頁 初版 ページ備考
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本文
 梅雨朦朧として昼尚暗く、湿潤家に満ちて万物黴花を生じ、山色空朦烟光霏々たる六月の二十一日、狭田も長田も手肱に水泡かき足り、向股に泥かきよせて早乙女の三々伍々隊を成し、蓑笠の甲冑を取よろひ、手覆脚絆の小手脛当、声勇ましく田歌を歌ひつつ、国の富貴を植ゑて行く、狗の手も人の手てふ農家の激戦場裡、安閑坊喜楽、梅田柳月、大槻伝吉の三人の土倒し者は、今しも本院を立出でて、本町西町とふみ抜く道は狭くも広小路、駆け出す馬場や六つの足、綾部停車場にと走せ付けた。往くは何処ぞ和知の川、音無瀬鉄橋音高く、梅雨を犯して梅迫駅、停車間もなく、真倉の洞穴、小暗き中を吾物顔に轟々と脱け出づれば、山媛の青き御袖を振はえて、炭団の如き三人の顔を暫し掩はせ玉ふも、時に取つての風情である。車中乍ら心も勇み胆躍り、欣喜の余り手も足も舞鶴駅に舞下り、新橋詰の船問屋西川方へと流れ込んだ。
 折柄切りに降り注ぐ大粒の雨に胆を打たれたか、予約の水夫は刻限来るも俤だに見せぬ。天道殿は罪重き三人の参島の企てをおぢやんにせむず御心にや、意地悪く間断なく、無遠慮に天水分神を遣はせ玉ふ。何時迄待つても空が晴れさうにも無いが、雨は元より覚悟の前だ。併し肝腎の舟の神が御出にならぬのには大閉口、さりとて中途に帰るのは死んでも厭な三人、畳の上に居ても死ぬ時には死ぬる、生死は天なり、惟神なり、是非水夫を呼びにやつて下さいと促す。西川の後家サンも止むを得ず、田中、橋本二人を、人を以て呼寄せた。出口教祖が始めて沓島開きをなされた時に御供をした水夫である。数千の漁夫の中にて最も剛胆な、熟練な聞えある選抜きの漁夫、これなら大丈夫、何時でも二つ返辞で往つて呉れるだらうと喜び勇んだ甲斐もなく、案に相違した弱音を吹くのである。
『何ぼ信神で参拝るにしても、神様の御守護があるにしても、此気色では鬼で無くて行けんでの、マア二三日ゆるりと遊んで待つてお呉れ。天候が定まつたら、お伴をさして貰はうかいの、明日は又冠島様の一年一度の御祭典で、今晩は冠島の明神が神船に乗つて、対岸の新井崎神社に御渡海になるので恐ろしい夜さだ。中々舟は出せぬでの、若し神の御心にでも障つたら大変だ。桑名の亀造で無けら、今晩舟を出す者は無いわいの』
と臆病風に魅せられたか、一向色よい返事をしてくれぬ。三人は況して今夜の様な行けぬと云ふ日に行つて見たいのが希望だ。是非々々賃金は厭はぬ、やつてくれい……と泣く様に頼む。水夫は益々恐怖心に駆られ、ソロソロ卑怯にも逃げ帰らむとする。逃げられては堪らぬので、口々に宥めつ賺しつ、直往勇進断々乎として行へば鬼神も之を避くとの教祖の神諭を楯に取りて動かぬ。互に押問答の果しもなく、遂には水夫も口をとぢて呆然として、只々謝絶一点張り、波に取られた沖の舟で、取付く島がない、吾等平時に於てこそ温柔なること綿羊の如くなれ、目的遂行に対しては猛虎の如く、一向直進眼中風雨なく海洋なし、満腔の勇気は烈火の如く挺身突撃死を見る帰するが如き覚悟ありと雖も、如何せむ舟を操ることを知らない三人は、肝腎の機関士に見放されたが最後、神ならぬ石仏同様の身、海上一寸も進航することが出来ぬのである。外の水夫も雇入れむにも、生憎一人も応ずる者がない。とうとう根負して、
『そんなら明朝一時まで自分等は待つ事にせう、キツと雨も止み、快晴になるは請合の西瓜だ、吾々の出修には必ず天祐があるから安心して行つてお呉れ』
と口から出任せ、覚束なき予言を二人は嘲笑ひ、自分等を馬鹿にした様な面付でシブシブ帰つて行く。
 三人問屋の部屋でガツト虫の様に小さく縮かんで寝に就いた。大方白川夜船でも漕いで居たであらう。一眠したと思ふ時分に、大丹生屋の門口を打叩き、
『お客さん昼の船頭が来た』
と叫んでゐる。……サア占た……と一度にはね起き、又も御意の変らぬ内と、直に支度に取かかつた。
『船頭さん、天気はゼロだらう』
とからかへば、
『イヤ気色は大変よい様だが、往ける丈行つて見な判らぬ』
とまだ煮え切らぬ返事である。
 時節到来港口を出たのは廿二日の正に午前二時であつた。ヤハリ空は曇り切つて星一つ青雲一片見当らぬが、米価のあがる糠雨が、ピリピリと怖相に一行の顔を嘗める位。例の南泊辺まで乗り出すと、火光海面を照らして疾走せる一隻の大汽船に行違うた。其動波の為に吾小舟を自由自在に翻弄されたのは、実に癪にさわつて堪らぬ。暫くすると天は所々雨雲の衣を脱いで、蒼い雲の肌を現はし、点々明滅、天書現はるるも、連日の降雨で内海の部分は水が濁つて居るせいか、今夜は清き星が波に宿を借りて居らぬ。博奕ケ崎も後に見て漕ぎ行く程に、東天紅を潮して遥の山頂より隆々朝瞰を吐出し、冠島沓島は眼前に横はり、胸中濶然欣扑歓呼覚えず拍手神島を遥拝し、各自に感謝祈願の祝詞を奏上し奉る。海上は至極平穏で、縮緬の様な波が奇麗に流れて居る。水夫は汗水になつて力限り艫と舳とから漕ぎ付ける。小舟は矢を射る如く、鳥の翔つ如く冠島へ着いたのは恰度六時に五分前であつた。
 何時でも片道に十時間以上十二時間はかかるものを、今回に限つて僅に四時間足らずとは実に意外であつた。喜楽は得意満面に溢れて、
喜楽『罪の軽い安閑坊が参拝すると此通りだ、神様は公平無私で在らせられる』
と一人で調子に乗つて居る。冠装束いかめしく徐々神前に進み、供物を献じ、祝詞を奏し、拝礼了つて、恭しく社殿を罷りさがつた。記念の為に自分は神前の丸石を一個頂戴した。勿論交換の石を持参して居るのであるから、只頂戴したのではない、今日は明神の祭日とて、前日から数名の氏子が社務所に出入りして、境内の掃除を行つて居る。
『早うから参詣でしたなア、マア一服なさい』
と座を譲る親切を厚く感謝しつつ、再海浜の船繋場に引返した。名木の冠島桑は去年の夏、或者の為に盗伐されて了つて影も止めず、僅に三尺許り周つた桑樹が波打際に根こじに古自て横たへられてある。実に憤慨に堪へぬ次第である。
『一昨年あたりから、横浜や神戸あたりから六七十人の団体がやつて来て、五六十万羽の鯖鳥を密猟したので、近頃は大変に鳥が減つて、漁猟に差支て皆の者が困つとるわいの』
と水夫二人が悲しさうに物語りつつ、早くも沓島に向つて漕出した。
 冠島沓島の中津神岩には数十羽の沖つ鳥、胸見る姿羽たたきも此れ宜しと流し目に、一行の舟を見送つて居る。浅久里、棚の下の巌壁を面白く左手に眺めて、諸鳥の囀る声は鐘の岩の真下に漕ぎつけた。奇絶壮絶胸為に清涼を覚ゆ。
 去る明治三十四年、見渡せば山野は靉靆として花の香に匂ひ、淡糊を解いて流したやうな春霞はパノラマの如き景色の配合を調和して、鳥は新緑の梢に謳ひ、蝶は黄金の菜の花に舞うてゐる好時節、舞鶴の海は白波のゆるやかに転び来つて、遠きは黄に近きは白く、それが日光に反射して、水蒸気の多い春の海を縁取つて、得も言はれぬ絶景天下泰平の真最中、出口教祖は三十五名の教弟を引連れられて、此鐘岩の絶頂に登り立ち、丹後国宮川の上流、天岩戸の産水と竜宮館の真清水を汲み来られ、眼下の海原見かけて、恭しく撒布し玉ひ、祝して仰せらるるやう、
教祖『向後三年の後には必ず日露の開戦がある。其時は巨人の如き強大国と小児の如き小国とが、世界列国環視の下で、所謂晴れの場所、檜舞台の上での腕比べの大戦争であるから、万々一不幸にして、我国が不利の戦争に終るやうな事になつたら、それこそ大変、万劫末代日本帝国の頭が上らぬ。そこで国祖の神霊大に之を憂慮し玉ひ、今此老躯をここに遣はし、世界平和の為、日東帝国の国威宣揚の為祈願せさせ玉ふなり、あゝ艮の大金神国常立尊よ、仰ぎ願はくは太平洋の如く広く、日本海の如く深き御庇護を我神国日本の上に降し玉ひて、此清けき産水と美はしき真清水の海洋を一周し、雲となり、雨となり、或は雪となり霰となつて、普く五大洲を潤はし、天下の曲霊を掃蕩し、汚穢を洗滌し、天国を地上に建設し、豊葦原瑞穂国をして、真の楽境となさしめ、黄金世界を現出せしめ玉へ』
と満腔の熱誠と信仰をこめ、天地も崩るる許りの大音声を振り上げて祈願されし断岩は即ち此れであると、喜楽の談を聞いた一行は、是非一度登岩して見たき一念期せずしてムラムラと湧起し、矢も楯も堪らぬやうになつた。
 水夫に頼んでカツカツにも舟を着けて貰ひ、かき登つて見ると、手足がワナワナするやうな心地がして教祖の勇気に充たせられて居られることを、今更のやうに感歎せずには居られぬやうになつた。音に名高き弥勒菩薩は自然岩に厳然として其英姿を顕はし、恰も巨人が豆の如き人間を眼下に睥睨して居るやうで、どこともなく神聖不可犯の趣が拝まれる。遠く目を東北に放てば日本海の波浪は銀屏を連ねたるが如く、黄金の大塊東天に輝き、足下の海は翠絹の褥の如く、美絶壮絶快感譬ふるに物なし。歎賞久うして再舟に上り、鰐の巣突当岩を巡見するに、奇又奇、怪又怪、妙と手を拍ち、絶と叫び、精神恍惚として羽化登仙したるの思ひであつた。
 舟は容赦もなく鬼岩の眼下を脱け出で、辛うじて戸隠岩に漕付いた。到着早々癪にさわつたのは、不届き至極にも斯かる神聖なる神島にまで、密猟者が入込み、少し許りの平地を卜して藁小屋を結び、雨露を凌ぎつつ、日夜鳥網を張りまはし、棍棒を携帯し、垢面八字髭を貯へた見ても恐ろしい様子、腹でも空いたら人間でも容赦なく餌食にし兼間じき五十男が、張本人と見えて、数多の壮丁を使役して頻りに信天翁を捕獲して居た真最中であつたが、彼等は教服姿の吾等一行を遥見して、何故か右往左往にあわてふためき、山上見かけて駆け登るあり、断岩を無暗に疾走するあり、何事の起りたるかと怪しまるる程であつた。稍落付顔の一人を近く招いて、
喜楽『あなた等は何を以てか俄にあわて迷ふぞ。自分等は信仰上より梅雨を冒して今此神島に参詣した者だが、見ればあんた等は海鳥の密猟者と見えるが、併し商売とは云ひ乍ら、かかる危険な殺伐な所業を止めて、他の正業に就き玉へ』
と三人は熱誠を籠めて説き諭せ共、固より虎狼の如き人物、一言も耳に入り相な気配だにない。「自由の権構てなやホツチツチ」と言はぬ許りの面構へ、要らぬ奴が来やがつて、人をビツクリさしやがつたが、マア裁判官でなくて大安心……と口走つたのは滑稽の極みであつた。抑も昨年来出口教祖は冠島沓島の密猟を非常に惜まれ、且つ罪もなき鳥族の徒に生命を奪はるるを憐み玉ひ、鳥族保護の祈願まで、朝夕神前にて御執行あつたが、本日は満願の日なれば、神明へ謝礼の為に種々の供物を持たせ、自分等を特に御差遣になつたのである。それが又偶然か神の摂理か、不可思議にも今日即ち明治四十二年六月廿二日、京都府告示第三百十九号を以て、加佐郡西大浦村大字三浜小橋及此両島の区域を禁猟区域となし、今後十年間は年内を通じて該区域内に棲息する鳥類及び雛の捕獲又は採卵を禁止せられた当日であつた。
 十年以前に出口教祖の建設せられた神祠は積年の風雨に曝されて、半朽廃に帰し、見るからに畏れ多く、一日も早く改築し奉りたく、是非来春までに造営せむことを神前に祈誓した。畏み慎み祠前に進み、各自に供物を献じ灯火を奉点し、例の祝詞を奏上し奉る。捕り残された数万の信天翁は不遠慮に自分等斎員の頭上を飛びまはり、神聖なる教服の袖に糞汁の雨を降らせ、一帳羅を台無しにする。まだ其上に業のわいた、気楽相に怪しい声を絞り出して、八釜しく、自分等を嘲笑して居る様に、心の勢か、感じられるのである。それから肝を投出して、お籠り岩に辛うじて歩を進めた。
 見れば上は絶壁に隔てられ、眼下は深き谷底に海水が青く漂うて物凄い。足の裏がウヂウヂするやうな難所に、教祖の真筆を以て歴然と神の御名が記されてある。教祖の豪胆と熱誠に感じて、思はず拍手九拝感歎の声口をついて出て来た。始終沈黙を守つて居た大槻は此時思ひ出した様に語る。
大槻『日露戦役の真最中、教祖のお供をして、十三ケ日間此岩窟に静坐し、敵艦全滅、我軍全勝の祈願をこらした時は、ズイ分困窮を極めた。清水は一滴も無し、三人の中へ僅か三升の煎米がある丈、これを生命の親として、幾十日も食はねばならぬ、昼夜にドンドンドンと怪しい、何とも譬えやうの無い音がして寂しいやら、凄じい様で、人心地はせず、陸上との交通は無論断絶なり、雨は毎日毎夜勤務の様に降り続ける、喉はかはく、腹はすく、手足はワナワナする、目はマクマクする、腹はガクガクして、死んでるのか生きてるのか、吾乍ら終には判別が付きかねる。そこへ雨育ちの体を俄の暑熱に当てられる。思ひ出してもゾツとする。教祖は平素の修行の結果にや、神色自若として容顔麗しく、ますます元気が増許り、二十日や三十日の辛抱が出来ぬ様では、日本男児の本領はどこに在るか、チと勇気を出したが宜からうと御叱りになる、自分等はモウ此上一片の勇気も精力も出すことが出来ぬのである。然るに天の与へか向ふの岸に滴りおつる水に塩気がないと云ふ事を、フト発見した。恰も地下の世界から脱出た様な心持で、色々と工夫をこらし、携へ持てる竹筒を受けて水を取り、漸く渇を医したといふ始末で、万一此水が無かつたなら、自分等は生命を全うすることが出来なかつたかも知れぬのであつた。併し一時は水で息をしたが何時迄も水許りでは堪らない。煎米はモウ三日前に終りを告げた。斯んな無人島に居て死ぬよりも、陸上にあつて幾らでも国家の為に尽すことが出来るであらうから、一日も早く帰らせて貰ひたいと教祖に泣きついた所が、教祖も可愛相に思召したか、……そんなら明日は迎への舟の来る様に神界へ祈願してやらう……と仰せられ、早速御願になると、天祐か偶然か、但は島神聴許ましましたか、翌朝旭の豊栄昇る頃、遥の海上より七隻の漁舟が沓島を目がけて漕ぎ寄せて来る。其時の嬉しさは死んでも忘れられないと思ひました。数名の漁夫は自分等三人の顔を熟視して、てつきり露探と誤認し、俄に顔色を変へて震ひ出し、……露人が一人に日本人が二人だ。恐ろしい迂濶に相手に成れないぞ……と互に目曳き、袖曳き、逸足早く逃げ帰らむとする。逃げ帰られては堪らないから、自分は手を合さぬ許りにして、事情を逐一説明して頼み込んだ。彼等も漸くの事に納得し、兎も角も舞鶴まで送つてくれることになつた。所が其甲斐もなく、漁夫は体よく口実を設けて、自分等を安心させ、油断させて置いて、一人も残らず逃げ帰つて了つたのである。大方村役場へでも報告する為であつたのでせう。そこで止むを得ず後野氏が断岩を辷りおりて、鰐の巣まで危難を冒し、海水を泳ぎなどして、鐘岩の真下迄行つて見ると、一人の漁夫がそこに波浪を避けて糸を垂れ鯛を釣つて居る最中で、裸体の儘に立つて居る後野氏の姿を見てビツクリし……生命知らずの馬鹿者奴、お前は鰐の巣窟を通つて来たなアと叫びつつ、直に船に乗せて戸隠岩の真下に漕ぎ寄せた。教祖は漁夫に向ひ、厚く感謝せられ……さてバルチツク艦隊も近日の中に対馬沖にて全滅するから安心ぢや、お前さまも村へ帰つて村の人に知らしてやつて安心させるがよいと……仰せられたが、果して其お言葉通り、七日程経つた所で、日本海の大海戦で、あの通りの大勝利、自分も其時は余りの事で呆れました』
と懐旧談を切りにやつて居る。二人の水夫も話の尾に付いて、
『私等も二人で此島へ御伴して参りましたが、教祖さまが……モウお前サン等は帰つてくれ、そして四十日目に船を持つて迎ひに来てくれ、万一居なかつたら、又四十日経つた所で来てくれ……と仰せられたが、こんな無人島に荒行なさるかと思へば、俄に悲しくなつて、二人共泣きました』
と朴訥な口から話して居る。帰路冠島の覗岩に舟を泛べて和布を刈り、貝や蟹を捕獲しつつ、五丈岩三丈岩等の勝景を感賞しつつ、順風に真帆をあげ、帰路に就く。正に午時であつた。
 船中にて昼飯を喫し、舞鶴湾口の蕪、久里、博奕ケ崎、白黒岩も何時しか後に見て、横波、南泊と進む程に、早松原にと差かかれば、水夫は潔く、
『田辺見たさに松原越せば、田辺がくしの霧が込む』
と唄ひ乍ら、廿二日の午後四時、大丹生屋へ安着した。
(大正一一・一〇・一七 旧八・二七 松村真澄録)
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