農作業の忙しい盛りの明治四十二年六月二十一日、喜楽、梅田柳月、大槻伝吉の三人は冠島・沓島参拝に出立した。しかし海は荒れており、頼んだ水夫も今は冠島の明神が御渡海される日だからと舟を出そうとしない。
喜楽の説得に、水夫はしぶしぶ、明朝一時まで天気を待つことになった。時間になると水夫たちがやってきたが、案の定天気は治まっている。二時に出港して、いつもは十二時間はかかる航海が、四時間足らずの六時前に着いた。
喜楽は冠装束いかめしく神前に進み、供物を献じて祝詞を奏上し、拝礼した。綾部から持ってきた石と、神前の丸石を一個交換して頂戴した。
祭礼で泊まり込んでいた氏子たちの誘いを厚く感謝しつつ断って、すぐに船着き場に戻っていった。昨年来、名木の冠島桑が何者かに盗伐されたり、鯖鳥が密猟されて激減したりといった事件を、水夫が悲しそうに物語る。
続いて舟は沓島の釣鐘岩の下に漕ぎつけた。明治三十四年、出口教祖は三十五名教え子を引き連れて参拝し、天岩戸の産水と竜宮館の真清水を海原に散布し給い、祈願をされた。
教祖は世界平和のため、日東帝国の国威宣揚のために祈願をさせ給うたのである。水夫に頼んで舟をつけてもらい、岩をかき登った。
到着早々癪に障ったのは、かかる神聖なる神島にまで密猟者が入り込み、平地にわら小屋を結んで鳥網を張回している。しきりにアホウドリを捕獲していたが、教服姿の自分たちを見てあわてて逃げだした。
残っていた一人を招いて、このような神域での危険な殺生商売をやめるようにと懇切に説いたが、耳に入りそうな気配はない。裁判官でなくて安心した、と口走るのが関の山であった。
昨年来、出口教祖は冠島・沓島の密猟を嘆き、鳥族がいたづらに生命を奪われることを憐み、祈願を御執行されていた。本日は満願の日のため、自分たちを特に御派遣になったのである。
不思議にも、明治四十二年六月二十二日、京都府の告示にてこの両島を含む地域が禁猟区域となったのである。
十年以前に出口教祖が建設せられた神祠は半ば朽廃し、来春までに造営せんことを神前に祈願宣誓した。それから自分たちはお籠りの岩に歩を進めた。
見れば上は絶壁に隔てられ、眼下は深き谷底に海水が青くただよっていてものすごい。ここに教祖の真筆をもって歴然と神の御名を記されている。改めて教祖の豪胆と熱誠に感じて拍手九拝、感嘆の声が口をついて出てきた。
大槻伝吉は、教祖と五野市太郎氏と三人で、十三日間静座して日露戦争全勝祈願をこらしたときの思い出を語った。舟人たちも、教祖がこんな無人島で荒行をされた思い出を話している。
正午に帰路につき、二十二日の午後四時、舞鶴の大丹生屋に安着した。