明治三十四年旧三月八日、元伊勢の御水の御用があった。世界広しといえども、生粋の水晶の御水は元伊勢の天の岩戸の産盥産釜の御水よりほかにはない。
その御水を汲んでこなければならぬという御筆先が旧三月一日に出たのである。この御水は昔から汲み取り禁制で、神官が見張りをしている。事前に木下慶太郎が下見をした上で、一行四十二名が出立した。
見張りの神官が日暮れに引き上げるのを見計らい、木下慶太郎が大急ぎで岩戸へ駆けつけた。小さな流れにかかった大きな朽木を渡り、竹筒にいっぱい産盥・産釜の水を汲んで引き上げてきた。
教祖は御用が無事に勤められたことを聞いて非常に喜ばれた。翌日は御礼参りに行って、夕方五時に出立し、夜通し歩いて綾部に戻ったが、何の御用をしてきたのか知らぬ者も多かった。
汲んできた御水は神様にお供えしてそのおさがりを皆で少しずついただき、大本の井戸と、元屋敷の角蔵氏方の井戸と、四方源之助氏宅の井戸へと五勺ほどを注いだ。
残りは沓島・冠島の真ん中、すなわち竜宮海へ注ぐようにとの教祖の言いつけであった。
大本の井戸に御水を注いだとき、教祖は、今に京都大阪からこのお水をいただきに来るようになる、と言われたが、今日ではそれは実現している。元屋敷の井戸、四方源之助氏の井戸も、両方とも今では大本の所有となっている。
御水の御用ができたころ、大本で三つの火の不思議があった。お広前のランプが落ちて大事になるところをようやく消し止めた。それから二三分のうちに風呂場から出火し、海潮が見つけて大騒ぎとなり、消し止めた。
するとまた、役員の背中にランプが落ちて危ういところを無事に消し止めた。わずか二三分の間に三つも火事があったのである。この時海潮は神がかりとなって深い神慮を洩らされた。
また御水は後に、教祖様が役員信者を連れて竜宮海に注しに行かれた。この水が三年たてば世界中へ廻り、世界が動き出すということであったが、果たして三年後には日露戦争が始まったのである。