明治三八年の夏、西田元教は宇治で数十人の信者をこしらえて布教していたが、あまりの多忙に自分に応援を頼んできた。そこで綾部を未明に飛び出して来た。
宇治にきてみると、家の内にも外にも参詣者がいっぱい詰まっている。海潮が来たというので、たくさんの信者が涙を流して喜んでいた。またいろいろの病人がご神徳をいただいて帰るので、宇治の町は坊主と医者以外は全部信者になってしまった。
小西の広間が心配になったので、西田と才幸太郎を視察に遣わした。小西の広間は繁盛していたが、神がかりがおかしいので、西田が調べると、押戸に手のとれた古い仏像が五六個並んでいる。
西田は、これは狸が守護しているから川に捨てろと小西に勧めてまた喧嘩になり、西田は宇治に戻ってきた。すると西田が瘧で苦しみだした。海潮が審神すると西田は口を切り、自分は仏像を守護していた狸で、西田が仏像を川へ流せというから命を取るのだ、と意地を張る。
そこで西田の頭にすり鉢を載せて灸をすえると、落ちてしまった。また三日目になると猛烈に襲ってきた。鎮魂してまた退散させる。二三度繰り返すととうとう退散してしまい、西田は元通り元気になった。
そうこうするうちに、三牧次三郎という中村派の男が内へやってきて、役員にいろいろ海潮や西田の悪口を言い、自分と西田を放り出してしまった。
西田は中村派の計略にかかって荷物一切を取られて放り出されたので、夫婦で伏見に行った。妻のお雪は撚糸工場で働き、西田は按摩を稽古して商売がてら伏見地方を布教していた。
明治四十二年に海潮が綾部に帰って大広前を建てたりお宮を建てるようになってから、綾部に戻って宣伝をするようになったのであった。
三牧ら中村派は、狸の憑霊を利用したりして迷信家の信用を得て、自分たちを放り出すことに成功したのであった。それから自分も病人の鎮魂がさっぱり嫌になり、神懸の修業も断念してしまった。
大正五年に横須賀の浅野さんの宅に行ったとき、参考のために幽斎の修業をして見せたのが元になって、浅野さんが熱心に霊学を研究し始めることになったのである。