建勲神社に奉仕中、宇津の小西のところに出張してみたが、小西は信者たちの前であからさまに、この人はもう狐がついて抜け殻となっている、と貶めた。
自分はわざと知らないふりをしていたが、小西は北桑田の信者にも悪口を触れまわして自分の勢力を広げようとする。小西の信者のなかでも、湯浅斎次郎氏は小西のやり方を憤慨していた。
喜楽が建勲神社を辞して御嶽教に奉仕していたころ、小西が自分の息子の嫁に、喜楽の妹をもらいたいと言ってきた。喜楽はそうなったら少しは小西も自分の言うことに耳を傾けるようになるだろうと、妹をやった。
しかし小西は改心するどころか、ますます増長した。しかし信者たちが小西への不信を募らせていき、とうとう一人も信者が来ないようになってしまった。
小西は明治四十三年に独断で大本へやってきて引っ掻き回し、教祖様の嫌いな薬の指図などをして、たいへんに気を揉んだ。やがて綾部に居れなくなって宇津に帰ったが、何人かを抱き込んで大本乗っ取りを計画していた。
湯浅氏は小西の味方のふりをして、彼らの陰謀を残らず大本に報告したので、彼らも策の施しようがなくなり、小西派は空中分解をしてしまった。
小西は京都で御嶽教の教導職になったが、病気治しをした先の家の細君と妙な関係になったのを見つけられ、その細君は井戸に身を投げて死んでしまった。それがたいへんな悶着を引き起こし、喜楽に泣きついてきて、金を無理に出させられた。
小西は京都にもいられなくなって宇津に戻ったが、中風になって弱り、大正六年ごろに帰幽した。
小西の弟子の小沢という男も、支部の娘と関係して放り出されたり、綾部で始終役員と喧嘩したりということを繰り返し、最後には祖霊社で自殺してしまった。杉井という男も大本を混ぜ返し、二代澄子に看破されて叱りつけられ、大本を出て大社教の教会をたてて反大本を宣伝しているという。