明治三十四年旧五月十六日、出口教祖をはじめ、上田会長、出口澄子ら役員信者十五人は、神命を奉じて出雲大社に参拝することになった。この参拝が済めば、何もかも神界の因縁がわかり、大望が成就するものだと役員一同は考えていた。
喜楽が役員たちの安易な考えをいさめると、彼らは自分に非常に冷淡になってしまった。教祖は行けばわかると澄ましたものであった。
海が荒れて船待ちをしていた加露ケ浜の旅館で、喜楽は夜中ごろに妙な夢を見た。自分が際限もなき原野に立っていると、東から大きな太陽とも月ともわからぬものが昇り、澄子の懐に入った。この月、すでに澄子は妊娠していた。
この夢を思い出して、この子は在朝在野の人々を済度する子になるだろうという考えとを重ね合わせ、長女を朝野と命名したのであった。朝野が四つになったとき、自分から直日だと言い出したので、直日と呼ぶようになったのである。
神社に参拝をなして、ご神火、清水、お砂をいただき、またもや山坂を越えて旧六月四日に福知山まで戻り、数百人の信者に迎えられ、ようやく綾部に帰ってきた。
それから百日間は埋み火として役員二人が昼夜保存し、天照大御神様にささげることになった。お砂は本宮山や竜宮館の周囲に散布し、清水は三四か所の井戸に注いだ。大島の井戸へは天の岩戸の産盥の水と一緒に注ぎ、金明水と名付けたのである。
その水と沓島詣での際に海に投じ、この水が世界中を廻った時分に日本と露国の戦争がおこる、大難を小難にまつりかえてもらうよう竜神様にお供えする、と祈願をこめた。それからちょうど三年目に日露戦争が起こったのであった。
出雲参拝後は教祖の態度ががらりと変わり、会長に対して非常に峻烈になってきた。また会長に対して反対的の筆先も出るようになってきた。それまでは役員が反対しても弁護に回ってくれていた。
澄子が妊娠したので、もはや厳しく言っても出ていく気遣いはないと思われたからであろうと思う。明治三十四年には、会長が変性男子に敵対したといって弥仙山に隠れ、海潮と澄子は非常に苦心した。
しかし初めて播州の神島へ行って神懸りになり、今まで自分の会長への考えが間違っていたとおっしゃられ、例のお筆先まで書かれたのである。
今日までの経路を述べれば際限がないが、霊界物語を後述するに当たり、大本の大要を述べておくのもあながち無用ではないと信じ、ここにその一端を古い記憶から呼び起こして述べることとした。