大八洲彦命は再生して月照彦神となり、終には印度国に降誕して釈迦となった。肉体を備えた釈迦は普通の人間、一人の乞食比丘であった。あるとき、周那というものの供養を受け、毒茸を食わされて中毒を起こし、河畔で倒れ死にをしたのである。
二十九歳で出家し、三十五歳で成道し、行脚遊説八十年にして入滅してしまった。二千有余年以前に普通の人と同じく死去してしまった。
されど如来としての釈迦牟尼仏は今も立派に生存しているのみならず、今後幾憶万年の末に至るまで決して絶滅する時期はないであろう。否、出生の始めもなく無始無終、永遠に生死を超越している。
これが生きた釈迦であり、三宝がその生命である。三宝とは仏法僧である。この三宝は区別するときは三種となるが、その真実は唯一の仏宝に帰納すべきものであり、一体三宝なのである。
今日に現存する大蔵経はすなわち釈迦であり、仏像仏画も釈迦である。僧侶もまた釈迦である。いずれも説法や感化の仏徳を備え、仏道の宣揚、下化衆生の動作をしないものはないのである。
このように仏法僧のある限り、釈迦の経論所説の真理は学者哲人その他、人類の脳裡に伝染し保留されて、人間がこの世界に存続する間は決して死滅するものではない。
出口教祖の教えも、瑞月の説法や著述もまた永遠に生存して、社会の光明となって万霊の世界を照明するものと信じている。ゆえに吾人が現代人にしきりに非難攻撃されてののしられても構わぬ。長年月の間において民衆のために師範たるを得ればよいのである。
仏法僧が釈迦そのものであるように、神と法と弟子の三宝が出口教祖でなければならない。経糸のお役である教祖が神ならば、緯糸の役もまた神であらねばならないと信じる。
瑞月が『霊界物語』を編纂するのも、要するに法・経蔵・経典を作るので、すなわち神を生みつつあるのである。また自己の神を現し、宣伝使という神を生むためである。この物語によって生まれた経典・宣伝使・神言はみな神であって、瑞月そのものの神を生かすためであると確信している。
『霊界物語』そのものはつまり、瑞月の肉身であり霊魂であり表現である。
霊魂学より見れば、釈迦の霊魂すなわち霊体は永遠無窮の生命を保ち給う宇宙主宰神の御分霊、御分体、一部の御表現仏として永遠に行き通しである。
釈迦にしたがい宣伝布教に仕えた諸々の菩薩・比丘・比丘尼・竜王・諸天子・諸天王もみな、行き通しでなければならない。
月照彦神もその他の諸神の霊魂も、やはり過去現在未来にわたって生き活き、天地万物の守り神となってその神力仏徳を永遠無窮に輝かし給う。
この物語も、天地開闢の元始より死生を超越し給える神々の神霊の幸いによって口述編纂したものなので、過現未三界を通じて大生命を保ち、宇宙の宝典となるとともに、この物語の口述者も筆録者も浄写者も印刷者も、みな神の活動を永遠になすものと言ってよいのである。