文献名1霊界物語 第47巻 舎身活躍 戌の巻
文献名2第3篇 天国巡覧よみ(新仮名遣い)てんごくじゅんらん
文献名3第12章 天界行〔1245〕よみ(新仮名遣い)てんかいゆき
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日2023-04-24 19:28:18
あらすじ高天原の各団体に居住する霊国天人および天国天人は愛を生命とし、一切を広く愛するがゆえに、肉体を離れて上ってきた精霊のためにあらゆる厚誼をつくし、懇篤な教訓を伝え、あるいは面白い歌をうたい舞曲を演じ、音楽を奏するなどして、一人でも多く高天原の団体に導き行こうとする。これ以外に他に念慮は少しもなく、これが天人の最高最後の歓喜悦楽である。しかしながら精霊が肉体を持って現世にあったころ、善霊(正守護神)や天人(本守護神)の群れに入るべき生涯を送っていなかったならば、これらの精霊は天国的な善霊を離れ去ろうとする。こうして精霊は、現世に在った時の生涯と一致する精霊と共に群居するまで、どこまでも転遷を休止することはない。自己生前の生涯に準的するものを発見すると、共に死後の生を送ろうとする。実に霊界の法則は不思議なものというべきである。人間は善霊である本守護神または正守護神によって高天原の諸団体と和合氏、悪霊である副守護神によって地獄の団体と相応の理によって和合する。これらの精霊は高天原と地獄界の中間である中有界(精霊界)に籍を置いている。副守護神は人間の記憶・想念の中にある悪しき事物の間に潜入し、正守護神は善き事物の間に侵入する。しかし人間の本体である精霊は、これらの精霊が人間の体の中に入り相共に居ることは少しも知らないのである。彼ら精霊(本守護神や副守護神)は、その人間の記憶と想念を、自分自身の所有物と信じている。また彼らが人間を見ることはない。現実界は彼ら精霊の視覚の対象とはならないのである。大神は彼ら精霊が人間と共にいることに気付かないよう、すこぶる甚深に大御心を用い給いている。なぜなら、もし副守護神がこのことを知るときには、人間を亡ぼそうと考えるからである。副守護神すなわち悪霊は、根底の国の諸々の悪と虚偽に和合しているゆえに、人間を亡ぼして地獄界に導き、自分の手柄にしようと希求しているからである。副守護神が人間と相語らうことがなければ、自分が人間の体内にあることを知らないのだから、決して害を加えることはない。大神は、悪霊が思うところや語るところが自分自身の中にあると信じさせることで、人間と共にありながら危害を加えないように取り計らい給うたのである。天国の団体に交通する精霊も人間に付き添っている。精霊のもっとも清きものを真霊または本守護神といい、やや劣ったものを正守護神という。人間が生まれると直ちに悪の裡に陥らなければならないことになっている。当初の生涯は、まったくこれら精霊の手の裡にあると言ってもいいのである。もし自分と相似た精霊が付き添って守らなくては、人間は肉体として生きることはできない。諸々の悪を離れて善に復ることもできない。人間の肉体が悪霊(副守護神)によって生命を保持し得ると同時に、善霊(正守護神、本守護神)によってこの悪を脱離することを得る。人間はこの両者の徳によって平衡の状態を保持するがゆえに、意志の自由というものがある。意志の自由によって悪を去って善に就き、心に善を植え付けることができる。一方には根底の国から流れてくる悪霊があり、一方には高天原から流れ来る善霊が活動しており、人間はこの中間に立ち、天国と地獄両方の圧力の間に挟まらなくては、決して意志の自由があるべきものではない。人間に自由のないときは、生命のあることを得ない。ゆえに、善を持って他人に強いることはできない。人から強いられた善は、けっして内分の霊魂に留まるものではないからである。心の底にどうしても滲み込むことはできない。ただ自由自在に摂受した善のみは、人間の意志の上に深い根底を下ろして、さながら自分ののもであるかの様になるものである。あらゆるものに対して自然的な事物から推考することしかできない現代では、神的・霊的な人格さえも自然的なものを考えてしまう弊害がある。神が全宇宙を統御あそばす一個の人格ならば、世上の君王のように多数の官人を用いるだろう、などと誤った憶測をしてしまうのである。このような人間に対して、高天原の霊界は現実世界のような空間的な延長はないのだ、と告げ諭しても、容易に会得することはできないだろう。自然界、自然の光明を唯一の標準と定めて思惟する者にとっては、どうしても空間的な延長を考えずにはいられないということなのだ。高天原の延長は、自然界の延長と違って限定がないために人心小智の測知するべきことではない。人間の眼界は太陽、太陰、星辰のようなきわめて遠くにあるものも認めることができる。内分の視覚力である想念界の視覚力は、なおも遠方に達する。内辺の視力の至る極みは、なおさらに遠大であり得ることが知られる。そうであれば、はたして何が神的視力の外にでることができようか。神的視力は現実に、一切の視力のいと深く内的にしてかつ高上である。想念中にこのような延長の力があるゆえに、高天原の一切の事物はここに住む者のすべてに伝わるのである。高天原を成就し遍満する主の神の神格より来るものもすべて、このようにして高天原に住むすべての者に伝わるのである。治国別と竜公はしばらく関所の館に休息していた。そこへ東方から一個の火弾が落下し、たちまち麗しい天人の姿と変わった。いつの間にか二人は想念に引きずられて第三天国に昇っていた。神人の姿をよく見れば、それは三五教の宣伝使・言依別命であった。治国別は驚きと喜びに打たれて静かに天の数歌を奏上し始めた。言依別命は、かねてより治国別を天国巡覧に連れて行きたかったのだがその機会を得なかったと語った。そして、このたびはからずもバラモン教によって治国別の肉体が苦しめられて精霊が離脱したため、天国を調べてから現界に立ち返り、神様のために働くよう治国別に言い渡した。竜公はまだ天国を巡覧するだけの善と信と智慧証覚が備わっていないのだが、大神様によって媒介天人に任ぜられたという言依別命の権限で、特別にお供を許された。そして天国で眼がくらみ息苦しくならないよう、黒い被面布を授けられた。言依別命はまず第三天国から二人を案内し、丘の上に立って天人たちの部落を見ながら二人に説明を始めた。天人たちは愛の情動によって集まり住んでいるためにおのずと秩序ができ、またそれぞれ天職を楽しみ営々として神業を営んでいるという。言依別命は、愛の善は吸引力が強く、また無限の生命を保有していると説明した。天人であろうと現界人であろうと地獄界の人間であろうと、それ相応の愛によって生命が保たれており、その愛なるものはすべて、厳の御霊、瑞の御霊の御神格から内分的に流れて来る、無始無終の生命であると説いた。
主な人物
舞台
口述日1923(大正12)年01月09日(旧11月23日)
口述場所
筆録者松村真澄
校正日
校正場所
初版発行日1924(大正13)年10月6日
愛善世界社版175頁
八幡書店版第8輯 537頁
修補版
校定版183頁
普及版87頁
初版
ページ備考
OBC rm4712
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