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文献名1霊界物語 第49巻 真善美愛 子の巻
文献名2第1篇 神示の社殿よみ(新仮名遣い)しんじのしゃでん
文献名3第2章 大神人〔1276〕よみ(新仮名遣い)だいしんじん
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
あらすじ天人や、神をよく理解した人間は、肉体の行為ではなく肉体を動作させる意志がどうであるかを観察するものである。意志は愛の情動から起こり、智性は信の真から発生する。人格は意志にあり、智性も意志と一致して活動するときに人格とみなされる。愛は、第一に神を愛することであり、次に隣人を愛するのが正しい意志である。ただ神を信じるだけではとうてい神の愛に触れ、霊魂の幸福を得ることは不可能である。神に心かぎりの浄き宝を奉り、物品を奉納するのは愛の発露である。神はその愛によって人間に必要なものを常に与え玉ふ。人間は、その与えられたものによって生命を保ち、かつ人格を向上しつつあるのである。無形の神に金銭物品を奉って神の歓心を得ようとするのは迷妄の極みだ、などと唱えるのは神を背にし光明を恐れ、地獄に向かって内底が開けている者である。天国の全般を総称して大神人と神界で称えられている理由は、天界の形式はすべて一個人として統御されるからである。地の高天原も一個の大神人であり、その高天原を代表して愛善の徳と信真の光を照らし、迷える人間に智慧と証覚を与えようとする霊界の担当者は、すなわち大神人である。そして一般の信とは、一個の大神人の体に有する心臓、肺臓、頭部、腰部、その他四肢の末端に至るまでの各個体である。これは現幽相応の理から見れば当然のことである。大神は、このように天界を一個人の単元として統御し玉ふゆえに、人間は宇宙の縮図といい、小天地といい、また天地経綸の司宰者というのである。人間の身体組織は部分の中に部分はあれども、一個人として活動するときは、単元として動く。そのように、大神人の個体である各信者は、一個の単元である大神人の心をもって心となし、地上に天国を建設して地獄界を認めることのないよう努力すべきものである。地上の高天原である綾の聖地には、大神の神格にみたされた聖霊が予言者に来たって、神の神格による愛善の徳を示し、信真の光を照らし、智慧証覚を与え、地上の蒼生を地の天人たらしめ、地上を天国ならしめる。霊界に入っては、すべての人を天国の歓喜と悦楽に永住せしめるために努力させ玉ふのである。各宣伝使・信者は一致してこの大神業に参加すべき使命を持っているのである。このように円満な団体の形式を作り得たときは、全般は部分のごとく、部分は全般のごとくになる。今日の聖地における状態はすべて個々分立して活躍し、全体は部分と和合せず、個人は各自の自然的観察を基点として光に背き愛に遠ざかっている。これらの人間は地の高天原を汚す悪魔の影像であり、偽善者である。口に立派なことをいっても、その手足を動かさず、神に対する真心を実行せないものが大多数である。他人のために善を行うのは、他人・世間から聖人仁者と見られることを願う自愛である。自愛は地獄の愛である。口述者の意志を無視したと思われたくないために、心ならずも五六七殿にこの物語を聴きに来る偽善者もたまにあるようであるが、そのような偽善的行為をやめて、主とするところの愛により、身魂相応の研究を自由にされることを希望する。物語を聞くと寄席気分のようだと言っている者があるそうだが、喜びは天国を開くものである。神は歓喜をもって生命となし、愛の中に存在し玉ふものだからである。神の心はすべて一瞬の間も、人間を歓喜にみたしてすべての事業を楽しんで営ましめようとし玉ふものである。綾の聖地に神の恵みによってひきつけられた人は、すべて大神の神格の中にある。しかし中に入ってしまうと尊さを認めえず、遠くへだててこれを望むときはその崇高さ偉大さがわかることもある。大神はときに一個の神人と現じ玉ふが、内分がふさがった人間は、神人に直接面接しその教えを聞きながら、自分より劣ったものとして遇するものである。大神の愛の徳に離れた者には生命はない。大神の愛また神格から離れたときは、何事もなすことはできないのである。神諭にも、人間がこれほど善はないと思ってしていることも、神の許しがなければ皆悪になる、九分九厘で掌がかえる、と示されてある。現代の人間は神にすがる者といえども、天界からの内流を裁断した者多いゆえに、見ることができない神を見ようとする。また物質欲にのみあくせくして人間が本来持っている証を滅却した地獄的人間は、神の存在を認めず、神を大いに嫌うものである。人間の本来の証とは、天界から人間に流入する神格そのものである。なぜなら、人が生まれたのは現界のためではない。その目的は、天国の団体を円満ならしめるためだからである。何人も神格の概念なくしては天界に入ることはできないのである。外分のみ開けた人間が天国の関門に近づくと、一種の反抗力と強い嫌悪の情を感じるものである。それは、天界を摂受すべき内分が、まだ高天原の形式に入っていないため、すべての関門が閉鎖されているからである。もし強いてこの関門を突破して高天原に入ろうとすれば、その内分はますます固く閉ざされてしまう。無理に地の高天原に近づいて神に近く仕え親しく教えを聞いても、ますます内分が閉ざされて心身が混惑し、行いに地獄的活動が現れる者があるのは、この理に基づくのである。大神を否み、大神の神格に充たされた神人を信じない者は、すべてこのような運命に陥るものである。人間の中にある天界の生涯とは、神の真にしたがい棲息するものであることをよく理解している精神状態をいうのである。
主な人物 舞台 口述日1923(大正12)年01月16日(旧11月30日) 口述場所 筆録者松村真澄 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年11月5日 愛善世界社版18頁 八幡書店版第9輯 37頁 修補版 校定版19頁 普及版9頁 初版 ページ備考
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本文  前節に述べたる如く、霊国や天国の諸団体に籍をおいたる天人及地上の天人即ち神を能く理解せし人間の精霊は、即ち地上の天人なるを以て、人間肉体の行為に留意することなく、其肉体を動作せしむる所の意思如何を観察するものである。故に人間の吾長上たると吾下僕たるとを問はず、其行為に就て善悪の批判を試むるが如き愚なことは、決してせない。天人の位地に進んだものは、其人格を以て意思に存し、決して行為其物にあらざる事を洞察するが故である。其智性も亦人格の一部分なれ共、意思と一致して活動する時に限つて人格と見なすのである。意思は愛の情動より起り、智性は信の真より発生するものである。故に愛のなき信仰は決して人格と見なすことは出来ない。愛は即ち第一に神を愛し、次に隣人を愛する正しき意思である。只神を信ずるのみにては到底神の愛に触れ、霊魂の幸福を得ることは不可能である。愛は愛と和合し、智は智と和合す。神に心限りの浄き宝を奉り、或は物品を奉納するは所謂愛の発露である。神は其愛に仍つて人間に必要なるものを常に与へ玉ふ。人間は其与へられたるものに仍つて生命を保ち、且人格を向上しつつあるのである。神は無形だとか、気体だとか、無形又は気体にましますが故に決して現界人の如き物質を要求し玉はず、金銭物品を神に献つて神の歓心を得むとするは迷妄の極なり、只神は信仰さへすればそれで可い、其信仰も科学的知識に仍つて認め得ない限りは、泡沫に等しきものだ。故に神を信ずるに先だち科学的原則の上に立脚して、而して後信ずべきものだ……などと唱ふる者は、すべて八衢人間にして、其大部分は神を背にし光明を恐れ、地獄に向つて内底の開けゐる妖怪である。
 霊国天国の天人が天界を見て一個の形式となすのは、其全般に行わたつてのことではない。如何なる証覚の開けた天人の眼界と雖も、高天原の全般を測り知ることは出来ない。されど天人は数百又は数千の天人より成れる団体を遠隔の位地より見て、人間的形式をなせる一団と感ずる事がある位なものである。故に未だ中有界に迷へる八衢人間の分際としては到底、天人の善徳や信真や証覚に及ばないことは無論である。
 斯の如く如何なる天人と雖も、高天原の全体を見極め、神の経綸を熟知し、且他の諸団体を詳しく見聞し能はざる位のものであるに、自然界の我利我欲にひたり、自愛と世間愛のみを以て最善の道徳律となし、善人面をさげ、漸く神の方向を認めたる位の八衢人間が到底神の意思の測知し得らるべき道理はないのである。天国の全般を総称して大神人と神界にては称へらるる理由は、天界の形式は凡て一個人として統御さるるからである。故に地の高天原は一個の大神人であり、其高天原を代表して愛善の徳と信真の光を照らし、暗に迷へる人間に智慧と証覚を与へむとする霊界の担当者は、即ち大神人である。神人の大本か大本の神人か……と云ふべき程のものである。之は現幽相応の理より見れば、決して架空の言でもない。又一般の信徒は所謂一個の大神人の体に有する心臓、肺臓、頭部、腰部、其他四肢の末端に至る迄の各個体である。
 天界を大神は斯の如く一個人として、即ち単元として之を統御し玉ふのである。故に人間は宇宙の縮図といひ、小天地と云ひ、天地経綸の司宰者と云ふ。人間の身体は、其全分にあつても、其個体に在つても、千態万様の事物より組織されたるは、人の能く知る所である。即ち全分より見れば、肢節あり、気管あり、臓腑あり、個体の上より観れば、繊維あり、神経あり、血管あり、かくて肢体の内に肢体あり、部分の中に部分あれ共、一個人として活動する時は、単元として活動するものである。故に個体たる各信者は一個の単元体たる大神人の心を以て心となし、地上に天国を建設し、地獄界の片影をも留めざらしむる様、努力すべきものである。大神が高天原を統御し玉ふも亦之と同様である。故に地上の高天原たる綾の聖地には、大神の神格にみたされたる聖霊が予言者に来つて、神の神格に仍る愛善の徳を示し、信真の光を照らし、智慧証覚を与へて、地上の蒼生をして地的天人たらしめ、且又地上一切をして天国ならしめ、霊界に入りては、凡ての人を天国の歓喜と悦楽に永住せしめむが為に努力せしめ玉ふたのである。其単元なる神人を一個人の全般と見做し、各宣伝使信者は個体となつて、上下和合し、賢愚一致して此大神業に参加すべき使命を有つてゐるのである。
 斯の如くして円満なる団体の形式を造り得る時は即ち全般は部分の如く、部分は全般の如くにて其両者の相違点は、只其分量の上にのみ存するばかりである。今日の聖地に於ける状態は、すべて個々分立して活躍し、全体は分体と和合せむとしてなす能はず、分体たる個人は各自の自然的観察を基点として、思ひ思ひに光に反き愛に遠ざかり、最も秀れたる者は中有界に迷ひ、劣れる者は地獄の団体に向つて秋波を送る者のみである。故に此等の人間は大神の聖場、地の高天原を汚す所の悪魔の影像であり、且個人としては偽善者である。偽善者なる者は時としては善を語り、又善を教へ、善を行へども、何事につけても自己の愛を先にするものである。大神の御神格及高天原の状態、愛の徳及信の道理並に高天原の将来などに付いて、人に語り伝ふること、最深く、天人の如く、聖人君子の如く、偶には見ゆるものあり、又其口にする所を心言行一致と云つて、行為に示さむとし、能く其行ひを飾つて、人の模範とならむとする者あれ共、其人間が実際に思惟する所のものは必ずや人に知られむ為、或は褒められむ為にする者が多い。此等は未だ偽善者の中でも今日の処では、余程上等の部分にして、俗眼より見れば真に神を理解し、言心行の一致の清き信者と見得る者である。次に今綾の聖地に於ける最上等の部分に属する人の心性を霊眼によつて即ち内的観察に仍つて見る時は、未だ天界の消息にも詳ならず、其自愛及世間愛と雖も、未だ徹底せず、天人の存在を半信半疑の態度を以て批判し、或は死後の生涯などに就て語る共、只真理に明き哲人と人に見られむが為に、真実に吾心に摂受せざる所を、能く知れるが如くに語り伝ふる位が上等の部分である。而して口には極めて立派なことを言つても、其手足を動かし、額に汗し、以て神に対する真心を実行せない者が大多数である。斯の如き人は神の教を伝へ、又は神に奉仕する祭官などは、俗事に鞅掌し或は田園を耕し、肥料などの汚穢物を手にするは、所謂神を汚すものと誤解してゐる八衢人間や、或は怠惰の為、筋肉労働を厭うて、宣伝使又は祭官の美名にかくるる横着者である。此等は何れも神の前にあつて、天人の一人をも霊的に認むることなく、又体的にも感ずる能はず、遂には神仏を種にして、自利を貪る地獄道の餓鬼となつてゐる者である。かくの如き心性を以て神の教を説き、神に近く奉仕するは、全く神を冒涜する罪人である。
 斯くの如き人間は神の言葉を売薬の能書位に心得、何事をも信ぜず、又自己を外にして徳を行ふの念なく、人の見ざる所に於て善をなすことを忌み、悪を人の前に秘し、善は如何なる小さきことと雖も、必ず人の前に現はさむことを願ふ。故に彼等がもし万一善なる行ひをなしたりとせば、それは皆自己の為になす所あるによる。又他人の為に善を行ふことあれば、それは他人及世間より聖人或は仁者と見られむことを願ふに過ぎない。斯の如き人のなすことはすべて自愛の為である。自愛は所謂地獄の愛である。
 心ならずも五六七殿に此物語を聞きに来てゐる偽善者も偶にはあるやうだ。それは折角昼夜艱苦して口述編纂した『霊界物語』を毎夜捧読して、霊界の消息を、迷へる人々に説き示さむとする口述者の意思を無視したと思はれてはならないから……といふ位な考へで、厭々聞きに来る人もあるのである。決して左様な御気遣は無用である。何程内底の天に向つて閉塞したる人々の身魂に流入し或は伝達せむとするも、到底駄目である。故にどうしても此物語の気にくはぬ人は、かかる偽善的行為を止めて、所主の愛に仍り、身魂相応の研究を自由にされむことを希望する。決して物語の聴聞や購読を強るものではない。
 経の神諭は拝聴すると、涙が出る様だが、緯の物語を聞くと少しも真味な所がなく、可笑しくなつてドン・キホーテ式の物語か又は寄席気分のやうだと云つてゐる立派な人格者があるさうだ。之れも身魂相応の理に仍るものだから、如何ともすることは出来ない。併し乍ら悲しみの極は喜びであり、喜びの極は悲しみであることは自然界学者もよく称ふる所である。而して悲しみは天国を閉ぢ歓びは天国を開くものである。人間が他愛もなく笑ふ時は決して悲しみの時ではない、面白可笑しく歓喜に充ちた時である。神は歓喜を以て生命となし、愛の中に存在し玉ふものである。赤子が泣いた時は其母親が慌てて乳を呑ませ、其子の笑顔を見て喜ぶのは即ち愛である。吾子を泣かせ、又は悲しましめて快しと思ふ親はない。神の心はすべて一瞬の間も、人間を歓喜にみたしすべての事業を楽しんで営ましめむとし玉ふものである。此物語が真面目を欠いて笑はせるのが不快に感ずる人あらば、それは所謂精神上に欠陥のある人であつて、癲狂者か或は偽善者である。先代萩の千松の言つたやうに……お腹がすいてもひもじうない……といふ虚偽虚飾の態度である。かくの如き考へを捨てざる限り、人は何程神の前に礼拝し、神を讃美し、愛を説くと雖も、到底天国に入ることは出来ない。努めて地獄の門に押入らむとする痴呆者である。
 凡て綾の聖地に、神の恵に仍つて引つけられたる人、及此教に信従する各地の信者は、すべて大神の神格の中にあるものである。然るに灯台下暗しとか云つて、之を認め得ざるものは天人(人間と同様の形態)の人格を保つことは出来ないものである。富士へ来て富士を尋ねつ富士詣で……と云ふ様に、富士山の中へ入つて了へば、他に秀れて尊き霊山たることを知らず、普通の山と見ゆるものである。併し遠くへだてて之を望む時は、実に其清き姿は雲表に屹立し、鮮岳清山を圧して立てる其崇高と偉大さを見ることを得る様に、却て遠く道をはなれ、教に入らざりし者が、色眼鏡を外して見る時は、其概要を知り全般を伺ふことが出来る様に、却て未だ一言も教を聞かず、一歩も圏内に足をふみ入れざる人の方が其真相を知る者である。又大神は時によつて一個の天人と天国にては現じ玉ひ、現界即ち地の高天原にては一個の神人と現じ玉ふ。されど斯の如く内分の塞がつた人間は神人に直接面接し且其教を聴き乍ら、之を普通の凡夫とみなし、或は自分に相当の人格者又は少しく秀れたる者となし、或は自分より劣りし者となして、之を遇するものである。かくの如き人間は八衢所か、已に地獄の大門に向つて、爪先を向けてゐるものである。真の智慧と証覚とを欠いた者は、総て地獄に没入するより道はない。故にかかる人間は天人又は神人の目より見る時は、何程形態は立派に飾り立て、何程人品骨格はよく見えても、殆ど其内分は人間の相好が備はつてゐないのである。彼等は罪悪と虚偽とに居るを以て、従つて神の智慧と証覚に反いてゐる。恰も妖怪の如く餓鬼の如く、其醜状目も当てられぬばかりである。斯の如き肉体の人間を称して、神界にては生命といはず、之を霊的死者と称ふるのである。又は娑婆亡者或は我利我利亡者ともいふ。
 斯の如き大神の愛の徳に離れたる者は生命なるものはない。而して大神の愛又は神格に離れた時は、何事もなし能はざるものである。故に大本神諭にも……神の守護と許しがなければ、何事も成就せぬぞよ。九分九厘いつた所でクレンとかへるぞよ。人間がこれ程善はないと思ふて致して居ることが、神の許しなきものは皆悪になるぞよ。九分九厘で手の掌がかへり、アフンと致すぞよ……と示されてあるのを伺ひ奉つても、此間の消息が分るであらう。人間は自然界の自愛に仍つて、或程度までは妖怪的に、惰性的に出来得るものだが、決して有終の美をなすことは出来ない、今日自愛と世間愛より成れる、すべての銀行会社及其他の諸団体の実状を見れば、何れも最初の所期に反し、其内部には、魑魅魍魎の徘徊跳梁して、妖怪変化の巣窟となり、目もあてられぬ醜状を包蔵してゐる。そして強食弱肉優勝劣敗の地獄道が、遺憾なく現実してゐるではないか。
 現代に於ても心の直なる者の胸中に見る所の神は、太古の人の形なれ共、自得提の智慧及罪悪の生涯に在つて天界よりの内流を裁断したる者は斯の如き本然の所証を滅却し了せるものである。斯かる盲目者は見る可らざる神を見むとし、又罪悪の生涯にて所証を滅却せし者は、神を決して求めない者である。故に現代の人間は神にすがる者と雖も、すべて天界よりの内流を裁断したる者多き故に、見る可らざる神を見むとし、又物質欲のみに齷齪して、本然の所証を滅却した地獄的人間は、神の存在を認めず、又神を大に嫌ふものである。すべて天界よりして先づ人間に流入する所の神格其者は実に此本来の所証である。何となれば、人の生れたるは、現界の為にあらず、其目的は天国の団体を円満ならしむる為である。故に何人も神格の概念なくしては天界に入ることは出来ないのである。
 高天原及天国霊国の団体を成す所の神格の何者たるを知らざる者は、高天原の第一関門にさへも上ることを得ない。かくの如き外分のみ開けたる人間がもし誤つて天国の関門に近付かむとすれば、一種の反抗力と強き嫌悪の情を感ずるものである。そは天界を摂受すべき彼の内分が未だ高天原の形式中に入らざるを以て、すべての関門が閉鎖さるるに仍るからである。もし強て此関門を突破し、高天原に進み入らむとすれば、其内分はますます固く閉ざされて如何ともす可らざるに至るものである。信者の中には無理に地の高天原に近付き来り、神に近く仕へ親しく教を聞いてからますます其内分が固く閉ざされて、心身混惑し、信仰以前に劣りし精神状態となり、且又其行ひの上に非常な地獄的活動の現はるるものがあるのは此理に基くのである。大神を否み、大神の神格に充されたる神人を信ぜざる者は、凡てかくの如き運命に陥るものである。人間の中にある天界の生涯とは即ち神の真に従ひて、棲息せるものなることを知悉せる精神状態をいふのである。惟神霊幸倍坐世。
(大正一二・一・一六 旧一一・一一・三〇 松村真澄録)
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