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文献名1霊界物語 第50巻 真善美愛 丑の巻
文献名2第1篇 和光同塵よみ(新仮名遣い)わこうどうじん
文献名3第1章 至善至悪〔1295〕よみ(新仮名遣い)しぜんしあく
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
あらすじ本巻物語の主人公である初稚姫および高姫の霊魂上に位置およびその情態を略叙して参考に供することとする。初稚姫は清浄無垢の妙齢の娘である。現代のごとく学校教育を受けたのではない。幼少より母を失い、父と共に各地の霊山霊場に参拝し、あるいは神霊に感じて、三五教の宣伝使と共に種々の神的苦行を経たため、霊魂の光が光輝を増し、黄金時代の天的天人の域に向上していた。宣伝使としても地上の天人としても実に優秀な神格者であった。ゆえに初稚姫は大神の許しあるときは、一声天地を震撼し、風水火の災いをも自由に鎮停しうる神力を備えていた。初稚姫は身に備わった愛善の徳により容易に神力を表すことを好まなかった。姫の精霊は大神の直接神格の内流に充たされ、霊肉共に一見して凡人ならざることがうかがわれるのであった。それゆえ八岐大蛇の跋扈する月の国へただ一人出征しても、神を親とし主人とし、愛善の徳と信真の徳を杖となし糧となして恐れるものもなかった。目に触れるもの身に接近するものことごとく親しき友となし、これらの同士となって和合帰順悦服の神力を発揮しつつ進むことを得たのである。かつまた理性的にしてものに偏せず、中庸の真理も超越していた。理性は、神愛と神真が和合した円満な情動によって獲得されるのである。さて、真理には三つの階級がある。人間はこの三階級の真理に居らなければ、神人合一の境に入ることは不可能である。低級の真理とは、法律・政治の大本を過たずによく現界に処し最善を尽くすことである。中程の真理は、君臣・夫婦・父子・兄弟・朋友・社会に対して五倫五常の完全な実を挙げることである。しかしいかにこれらの真理を解し説き、説示するといえども、実践しない者はいわゆる偽善者であり、無知の者にもかえって劣ると霊界では定められている。最高の真理とは、愛善と信真に居り、大神の直接内流を受け、神と和合し外的観念を去り、万事内的に住し得るものをいうのである。これに照らせば、現代の人間が理性的とか理知的とか言っている言説や著書も、ひとつとして理性的なものはないのである。不完全な自然界の知識に立脚し、地獄界より来る自愛や世間愛に基づく偽りの知識によって薫陶されたものであるので、彼らは精霊界に至れば生前の虚偽的知識や学問を全部剥奪され、残るは恐怖と悲哀と暗黒のみである。霊的および神的生涯の準備がなければ、精霊界に至った時にかえって無知な人間にも数等劣ってしまう。むしろ、現界において無知なる者は、おぼろげながらも霊界を信じかつ恐れるがゆえに、驕慢の心無く心中常に従順の徳に居る。そのような者は、霊界に入りし後は神の光明に浴し、神の愛を受けるものである。現界においては、到底その人間の真相はわからに。初稚姫のように肉体そのままで天人の列に加わった神人であれば、その人の面貌・言語・動作に触れてその生涯と人格を洞察し得るのである。しかし現代人は肉体の表衣に包まれてその真相を悟ることはできない。偽善者を見じゃとみなし聖人とみなして賞揚する例は沢山にある。瑞月はかつて高熊山の修業のおり、神の許しを得て霊界を見聞した時、過去の智者賢者、英諭豪傑と言われる古人の精霊に会い、その情態を見聞して以外の感に打たれたことがしばしばあった。彼らは自愛と世間愛に惑溺し、自尊心強く神の存在を認めざりしため、霊界にあっては実に弱き者、貧しき者、賤しき者として遇せられていたのである。現代の政治家・智者学者と唱えられる人たちに対しても、これを思えば実に憐憫の情に耐えないのである。かれら憐れな地獄の住人を救い上げようと焦慮しても、彼らの売文が神に向かって閉ざされ、地獄に向かって開かれているため、これを光明に導くのは容易な業ではない。初稚姫の神霊はふたたび大神の意志を奉戴し、地上に降臨して大予言者となって綾の聖地に現れ、その純朴無垢なる記憶と想念を通じて、天来の福音をあるいは筆に、あるいは口に伝達し、地上を五六七の天国に順化せしめんと計らせ給うこと、三十年に及んだ。されど頑迷不霊の人間はこれを恐れ忌むことはなはだしく、これを嫉視し憎悪していた。このような有様においては、百の天人は大神の命を奉じていかなる快挙に出で給うやもはかり難いのである。次に高姫の霊界上の地位について少しく述べる必要がある。宇宙には天界、精霊界、地獄界の三界がある。精霊界は霊界と現界の中間に介在している。まず、精霊界には自然的・肉体的精霊なるものが団体を作り、現界人を邪道に導こうとしていることを知らなければならない。肉体的精霊にはいろいろな種類があり、天狗、狐狸、大蛇、妖魅など暗黒な現界に跋扈跳梁している。これらは地獄界でもなく、一種の妖魅界または兇党界と称し、人間にたとえれば浮浪の徒である。かれらは山の入り口、川の堤、池の岸、墓場の付近などに群居している。暗迷にして頑固な妄想家のすきを窺い、その欲望に付け入って入ってくるのである。肉体的精霊は人間の想念と和合せず、体中に侵入し来たり、その諸感覚を占有し、口舌を用いて語り、手足をもって動作する。その精霊は憑依した人間をすべて吾が物と思っている。あるときは人間の記憶と想念に入って大神と自称し予言者をまねる。その人間はついに自らを真の予言者と信じるに至ってしまう。されどこうした精霊は少しの先見の明なく、一息先のことも探知しえない。このような精霊に憑依された人間が、たとえば開祖の神諭を読みふけり、記憶し想念中に蓄え置くとき、侵入してきた悪霊はこれを基礎として種々の予言的言辞を弄し、頑迷無知な世人を籠絡して邪道に引き入れようとするものである。悪霊の矛盾に気が付いて反抗的態度に出ても、悪霊に説伏されたり肉体上の苦痛を与えられたりしてついに悪霊に感服するに至ると、もはやどうすることもできなくなる。いかなる神の説示も認めることはできなくなり、自ら天下唯一の予言者であるなどと狂的態度に出ることになる。この物語の主人公たる高姫はこの好適例である。ゆえに高姫は、自己の記憶と想念と憑霊の言葉のほかには一切を否定し、数多の人間を熱狂的に吾が説に悦服せしめようと焦慮するのである。高姫はいったん改心の境に入ったように見えたが、ふたたびつきまとえる兇霊は肉体の隙を見澄まして侵入し来たり、大狂態を演じるに至ったのである。兇霊が憑依した偽予言者に魅入られた人間は、いかなる善人であっても相当に思索力を有する人物でも、その術中に巻きこまれてしまう。いったん迷わされた人間は容易に目が醒めるものではない。されど神はあくまでも至仁至愛にましますゆえに、弥勒胎蔵の神鍵をもって宝庫を開き、天国の光明である智慧証覚を授け、愛善の徳に包んで救い上げ、一人でも多く天国の生涯を送らせようとなし給い、予言者に聖霊を充たして天国の福音を伝えさせることになったのである。祠の森に杢助を名乗って現れた妖怪は、兇悪な自然的精霊にして高姫の心性に相似していたために互いに相慕い求め、狂態を演出して神業の妨害をなした。ついには神律に照らされて根底の国に投げおろされるまで、その暴動をやめないものである。
主な人物 舞台 口述日1923(大正12)年01月20日(旧12月4日) 口述場所 筆録者松村真澄 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年12月7日 愛善世界社版7頁 八幡書店版第9輯 149頁 修補版 校定版7頁 普及版3頁 初版 ページ備考
OBC rm5001
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本文  本巻物語の主人公たる初稚姫及び高姫の霊魂上の位置及び其情態を略舒して参考に供することとする。
 初稚姫は清浄無垢の若き妙齢の娘である。而して別に現代の如く学校教育を受けたのではない。只幼少より母を失ひ、父と共に各地の霊山霊場に参拝し、或は神霊に感じて、三五教の宣伝使と共に種々雑多の神的苦行を経たるため、純粋無垢なる霊魂の光は益々其光輝を増し、玲瓏玉の如く、黒鉄時代に生れながら、其本体即ち内分的生涯は、黄金時代の天的天人と向上して居た。故に宣伝使としても又地上の天人としても、実に優秀な神格者であつた。大神の神善と神真とを能く体得し、無限の力を与へられ、神の直接内流を其精霊及び肉身に充せ、其容貌並に皮膚の光沢、柔軟さなどは殆どエンゼルの如くであつた。故に初稚姫は大神の許しある時は、一声天地を震撼し、一音風雨雷霆を叱咤し、地震雷海嘯その外風水火の災をも自由に鎮定し得る神力を備へてゐた。されど初稚姫は愛善の徳全く身に備はり、謙譲なるを以て処世上の第一となしゐたれば、容易に神力を現はす事を好まなかつた。而して姫の精霊は大神の直接神格の内流に充され、霊肉共に一見して凡人ならざるを悟り得らるるのであつた。姫は能く天人と語り、或は大神の御声を聞き、真の善よりする智慧証覚を具備したる点は、三五教きつての出藍のほまれを恣にしてゐた。それ故八岐大蛇の跋扈する月の御国へ神軍として出征するにも、只一人の従者もつれず、真に神を親とし主人とし、師匠とし、愛善の徳と信真の徳を杖となし或は糧となし、天上天下に恐るるものなく、猛獣毒蛇の荒れ狂ふ深山幽谷曠野をも、天国の花園を過ぐるが如き心地し、目に触るるもの、身に接近するもの、悉く之を親しき友となし、且此等の同士となつて和合帰順悦服等の神力を発揮しつつ進むことを得たのである。故に如何なる現界的智者学者に会ひて談話を交ふる時も、一度として相手方に嫌悪の情を起さしめたる事なく、其説く所は何れも霊的神的にして、愛と信とに充されざるはなく、草野を風の行過ぎるが如く風靡し、帰順し、和合せしめねばおかなかつた。天稟の美貌と智慧証覚は何れも愛善の徳と真善の光なる大神より来るが故に、姫が面前に来る者は、何れも歓喜悦服せざるはなかつたのである。且又理性的にしてものに偏せず、中庸、中和、大中などの真理を超越してゐた。
 抑も此理性は神愛と神真の和合より来る所の円満なる情動によつて獲得し、此情動よりして真理に透徹するものである。さて真理には三つの階級がある。而して人間は此三階級の真理にをらなければ、到底神人合一の境に入る事は不可能である。法律、政治の大本を過たず能く現界に処し、最善を尽し得るを称して、低級の真理に居るものと言ひ、又君臣夫婦父子兄弟朋友並に社会に対し、五倫五常の完全なる実を挙げ得る時は、これを中程の真理に居る者といふのである。併しながら如何に法律を解し政治を説き、或は五倫五常を詳細に説示し了得すると雖も、之を実践躬行し得ざる者は所謂偽善者にして、無智の賤人にも劣るものと霊界に於て定めらるるのである。又愛の善と信の真に居り、大神の直接内流を受け、神と和合し、外的観念を去り、万事内的に住し得るものを称して最高の真理に居る者と云ふのである。故に現代に於て聖人君子と称へられ或は智者識者と称せられ、高位高官と崇めらるる人物と雖も、最高の真理に居らざる者は、霊界に於ては実に賤しく醜く、且中有界又は地獄界に群居せざるを得ざる者である。霊界に行つて現界に時めく智者学者又は有力者といはるる者の精霊に出会し、其情況を見れば、何れも魯鈍痴呆の相を現はし、身体の動作全く不正にして四肢戦き慄ひ、少しの風にも吹き散りさうになつてゐるものである。是凡てが理性的ならざるが故である。現代の人間が理性的とか理智的とか、物知り顔に云つてゐる其言説や又は博士学士等の著書を見るも、一として理性的なるものはない。何れも自然界を基礎とせる不完全なる先賢先哲と言はれたる学者の所説や教義を基礎とし、古今東西の書籍をあさり、之を記憶に存し、其記憶を基として種々の自然的知識を発育せしめたるものである。故に只記憶のみにして、決して理性的知識ではない。現代の総ての学者は主神大神の直接又は間接の内流を受入るる事能はず、何れも地獄界より来る自愛及び世間愛に基く詐りの知識に依つて薫陶されたるものなれば、彼等は霊体分離の関門を経て精霊界に至る時は、生前に於る虚偽的知識や学問の記憶は全部剥奪され、残るは只恐怖と悲哀と暗黒とのみである。凡て自愛より出づる学識智能は何れも暗黒面に向つてゐるが故に、神のまします天界の光明に日に夜に遠ざかりゐたれば、精霊界に入りし時は霊的及び神的生涯の準備一もなく、否却つて魯鈍無智の人間に劣ること数等である。魯鈍無智なる者は、常に朧気ながらも霊界を信じ且つ恐るるが故に、驕慢の心なく、心中常に従順の徳に居りしが故に、霊界に入りし後は神の光明に浴し、神の愛を受くるものである。
 又現界に在りては、到底人間の其真相は分らないものである。されど初稚姫の如く肉体其儘にて天人の列に加はりたる神人は、よく其人の面貌及び言語動作に一度触るれば、其生涯を知り、其人格の如何をも洞破し得るのである。如何に現代人が法律をよく守り、或は大政治家と賞められ、智者仁者と云はるる事あるとも、肉体の表衣に包まれ居るを以て、暗冥なる人間はこれが真相を悟り得ることは出来ない。肉体人は其交際に際し、心に思はざる所を言ふことあり、或は思はざる所、欲せざる所を為さねばならぬことがある。怒るべき時に怒らず、或は少々無理なことでも、何とかして表面を装ひ、世人をして却つて之を聖者仁者と思はしめてゐる事が多い。又肉体人は如何なる偽善者も虚飾も判別するの力なければ、賢者と看做し、聖人と看做して、大いに賞揚することは沢山な例がある。故に瑞の御霊の神諭にも……人の見て善となす所、必ずしも善ならず、人の見て悪となす所、必ずしも悪ならず、善人と云ひ悪人と云ふも、只頑迷無智なる盲目世間の目に映じたる幻像に外ならない……と示してあるのは此理由である。瑞月嘗つて高熊山に修業の折、神の許しを受けて霊界を見聞したる時、わが記憶に残れる古人又は現代に肉体を有せる英雄豪傑、智者賢者といはるる人々の精霊に会ひ、其状態を見聞して意外の感にうたれたことが屡々あつた。彼等の総ては自愛と世間愛に在世中惑溺し、自尊心強く且神の存在を認めざりし者のみなれば、霊界に在りては実に弱き者、貧しき者、賤しき者として遇せられつつあつたのである。之を思へば現代に於ける政治家又は智者学者などの身の上を思ふにつけ、実に憐愍の情に堪へない思ひがするのである。如何にもして大神の愛善の徳と信真の光に、彼等迷へる憐れな地獄の住人を、せめて精霊界にまで救ひ上げ、無限の永苦を免れしめむと焦慮すれども、彼等の霊性は其内分に於て神に向つて閉され、脚底の地獄に向つて開かれあれば、之を光明に導くは容易の業でない。又如何なる神人の愛と智に充てる大声叱呼の福音も、霊的盲目者、聾者となり果てたるを以て、如何なる雷鳴の轟きも警鐘乱打の響も、恬として鼓膜に感じないのである。吁憐れむべき哉、虚偽と罪悪に充てる地獄道の蒼生よ。ここに初稚姫の神霊は再び大神の意思を奉戴し、地上に降臨し、大予言者となつて綾の聖地に現はれ、其純朴無垢なる記憶と想念を通じて、天来の福音を或は筆に或は口に伝達し、地上の地獄を化して五六七の天国に順化せしめむと計らせ給ふこと、殆ど三十年に及んだ。されど頑迷不霊の有苗的人間は之を恐れ忌むこと甚だしく、恰も仇敵の如くに嫉視し、憎悪するに至つたのである。ああ斯くも尊き大神の遣はし給ふ聖霊又は予言者の言を無視し、軽侮し、益々虚偽罪悪を改めざるに於ては、百の天人は大神の命を奉じ、如何なる快挙に出で給ふやも計り難いのである。
 次に高姫の霊界上の地位に就いて少しく述ぶる必要がある。宇宙には天界、精霊界、地獄界の三界あることは屡々述べた所である。而して精霊界は霊界現界の又中間に介在せりと云つてもいい位なものである。故に精霊界には自然的即ち肉体的精霊なるものが団体を作つて、現界人を邪道に導かむとするものある事を知らねばならぬ。肉体的精霊とは、色々の種類あれども、其形は人間に似て人間にあらざるあり、或は天狗あり、狐狸あり、大蛇あり、一種の妖魅ありて、暗黒なる現界に跋扈跳梁しつつあり。此等は地獄界にも非ず、一種の妖魅界又は兇党界と称し、人間に譬ふれば、所謂不浪の徒である。彼等は人間の山窩の群の如く、山の入口や川の堤や池の畔、墓場の附近等に群居し、暗冥にして頑固なる妄想家の虚を窺ひ、其人間が抱持せる欲望に附け入つて虚隙を索めて入り来るものである。此肉体的精霊も亦人間の想念と和合せずして其体中に侵入し来り、其諸感官を占有し、其口舌を用ひて語り、其手足を以て動作するものである。而して此等の精霊は其憑依せる人間の物を以てすべて吾物とのみ思ふてゐる。或時は人間の記憶と想念に入つて大神と自称し、或は予言者をまね、遂に自ら真の予言者と信ずるに至るものである。されど此等の精霊は少しも先見の明なく、一息先の事は探知し得ないものである。何故なれば其心性は無明暗黒の境域に居るが故である。憑依された人間が、例へば開祖の神諭を読み耽り、之を記憶に止め想念中に蓄へおく時は、侵入し来りし悪霊即ち妖魅は、之を基礎として種々の予言的言辞を弄し、且又筆先などと称して、似たり八合なことを書き示し、頑迷無智なる世人を籠絡し、遂に邪道に引き入れむとするものである。開祖の神諭に……先の見えぬ神は誠の神でないぞよ……と示されたるは此間の消息を洩らされたものである。又熱狂なる人間は吾記憶を基礎として、其想念を働かせて入り来りし精霊の吾記憶に反けることを口走り、或は書き示す時は、忽ち審神的態度となり……汝は大神の真似を致す邪神にはあらざるか、サ早く吾肉体を去れ……などと反抗的態度に出づるものもある。併し乍ら遂には其悪霊の為に説伏せられ、或はいろいろの肉体上に苦痛を与へられ、遂にその妖魅の言に感服するに至るものである。サア斯うなつた時は、最早上げも下しも出来なくなつて、如何なる神の光明も説示も承認するの力なく、只単に……われは天下唯一の予言者なり、無上の神人なり、吾なくば此蒼生は如何せむ……と狂的態度に出づるものである。此物語の主人公たる高姫は即ち此好適例である。故に彼れ高姫は自己の記憶と想念と、憑霊の言葉の外には一切を否定し、且熱狂的に数多の人間を吾説に悦服せしめむと焦慮するのである。其熱誠は火の如く暴風の如く又洪水の如し。如何なる神人も有徳者も之を説得し帰順せしめ、善霊に帰正せしむることは天下の難事である。故に高姫は一旦改心の境に入りし如く見えたれども、再びつきまとへる兇霊は彼が肉体の虚隙を見すまし、又もや潮の如く体内に侵入し来り、大狂態を演ずるに至つたのである。
 斯かる狂的憑霊者の弁舌と行為は最も執拗にして、昼夜間断なくつき纏ひ、吾所説に帰服せしめねば止まない底の勇猛心を抱持してゐる。斯かる兇霊の憑依せる偽予言者に魅入られたる人間は、如何なる善人と雖も、稍常識ありと称へられてゐる紳士でも、又奸智に長けたる人間でも、思索力を相当に有する人物でも、遂には其術中に巻込まれて了ふものである。かかる例は三十五万年前の神代のみではない、現に大本の中に於ても斯かる標本が示されてある。これも大本の神示に依れば、神の御心にして、善と悪との立別けを示し、信仰の試金石と現はし給ふものたることを感謝せなくてはならぬ。一旦迷はされたる精霊や人間は、容易に目の醒めるものでない。併しながら斯の如き渦中に陥る人間は、霊相応の理によつて、已むを得ずここに没入するのである。されど神は飽くまでも至仁至愛にましますが故に、弥勒胎蔵の神鍵を以て宝庫を開き、天国の光明なる智慧証覚を授け、愛善の徳に包んで、之をせめて中有界までなりと救ひ上げ、ここに霊的教育を施し、一人にても多く天国の生涯を送らしめむとなし給ひ、仁愛に富める聖霊を充して、予言者に来り、口舌を以て天国の福音を宣り伝へ給ふこととなつたのである。吁されど頑迷不霊の妖怪、人獣合一の境域に墜落せる精霊及び人間は、天国に救ふこと恰も針の穴へ駱駝を通すよりも難きを熟々感ずる次第である。大本の神諭にも……神と人民とに気をつけるぞよ……とあるは即ち精霊と肉体人とに対しての御言葉である。吁如何にせむ、迷へる精霊よ、人間よ、殊に肉体的兇霊に其身魂を占領されたる妖怪的偽予言者の身魂をや。
 序に祠の森に於て杢助と現はれたる妖怪は、兇悪なる自然的精霊即ち形体的兇霊にして高姫の心性に相似し、接近しやすき便宜ありしを以て、互に相慕ひ相求め、風車の如く、廻り灯籠の如く、終生逐ひまはりなどして狂態を演出し、現界は云ふに及ばず霊界の悪魔となりて神業の妨害をなし、遂には神律に照され、神怒に触れ、根底の国の最底に投下さるるまで其狂的暴動を止めないものである。吁憐れむべきかな、肉体的兇霊よ、其機関となりし人間の肉体よ、精霊よ。思うても肌に粟を生ずるやうである。ああ惟神霊幸倍坐世。
(大正一二・一・二〇 旧一一・一二・四 松村真澄録)
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