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文献名1霊界物語 入蒙記 山河草木 特別篇
文献名2第4篇 神軍躍動よみ(新仮名遣い)しんぐんやくどう
文献名3第27章 奉天の渦よみ(新仮名遣い)ほうてんのうず
著者出口王仁三郎
概要
備考2024/1/31出口王仁三郎全集第6巻を底本として校正。
タグ データ凡例 データ最終更新日2024-01-31 03:32:23
あらすじ
日本で軍資金の調達にあたっていた加藤明子は、日出雄から密書を受け取った。これと思う数名を同道して、滞在場所まで来るように、というものであった。

そこで一同は準備に入ったが、先に奉天に入っていた横尾敬義が戻ってきて、唐国別が言うには、「すでに日出雄先生は蒙古入りしたので、後から来る人々は、先生が大庫倫に到着してから来るように」とのことであったと伝えた。

加藤、国分義一、藤田武寿の三人は予期に反したが、すでに準備が整っていたこともあり、二代教主と相談の上、ともかく日出雄一行の後を追うことにした。

しかし水也商会に着くと、唐国別はこれ以上奥地に日本人を送るなどとんでもない、いくら大先生、二代様の頼みでも、自分の考えに反したことは聞き入れるわけにはいかない、という態度であった。

奥地より日出雄の消息を伝えに来た大倉は、三人に同情し、日出雄先生より来いとのことであれば、万難を排して協力しましょう、と言ってくれたが、唐国別は態度を硬化させ、絶対に反対する旨通告してきた。

仕方なく三人は大連、旅順などを巡覧しながら連絡を待っていた。結局、日出雄よりは「女子の入蒙は困難なので、日本・奉天間を往復して連絡の用務を勤めるように」との連絡があった。また、大倉の協力の言は単なる気休めだと判明した。

仕方なく三人は一度そろって日本に帰った。そして加藤はかつて満蒙に名をとどろかせた緑川貞司に師事して準備を練っていた最中、パインタラの変の報に接したのであった。
主な人物【セ】横尾敬義、唐国別=王天海、藤田武寿、加藤明子、大倉、国分義一、王敬義【場】-【名】源日出雄、西村輝雄、佐藤六合雄、広瀬義邦、大本二代教主(出口澄子)、萩原、西島、唐国別夫人、中野、張作霖、盧占魁、米倉範治、劉武林=緑川貞司、湯浅清高、谷前清子、松村清香、東尾輝子 舞台 口述日1925(大正14)年08月 口述場所 筆録者 校正日 校正場所 初版発行日1925(大正14)年2月14日 愛善世界社版241頁 八幡書店版第14輯 635頁 修補版 校定版244頁 普及版 初版 ページ備考
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本文  日出雄が大志を懐いて綾の聖地を出発して以来、満蒙の空を眺めては、日夜憧憬の思ひを抱きつつ、軍資金の調達に苦労してゐた加藤明子は、日出雄出発後三週間を経た頃、日出雄よりの密書を受取つた。それには旧三月三日迄に横尾敬義、西村輝雄、国分義一、藤田武寿、佐藤六合雄其他之れと思ふ人々の中、四五名同道して我滞在の場所迄来れとの命令が認めてあつた。加藤は天にも昇る心地し喜び勇んで右の人々に其旨を伝へた。此中佐藤は用務の為め、内地に残留し、西村は大庫倫へ一行到着迄待つと云ひ、横尾は他に要件があるので先んじて奉天へ向ひ、国分、藤田の両人は早速関係事業の整理に取掛つた。尚加藤の通告に依り是非此一行に加はらむと決心した広瀬義邦は、万難を排して渡満し、場合に依つては大連若しくは奉天に職を求めて時機の至るを待つ事とした。
 加藤も蝟集し来る故障を凌いで出発準備を急いでゐる折柄、先に渡満した横尾が帰来し、
『日出雄先生は既に入蒙せしこと、唐国別の言に依れば後の連中は大庫倫到着後、来る様に』
との事などを伝へた。加藤は予期に反したので、取敢へず国分、藤田に其旨を通ずると、二人は既に準備全く成り、今更如何することも出来ぬといふ始末なので、已むなく其処置を大本二代教主に謀り、遂に国分、藤田、加藤の三人は一命を賭して日出雄一行の跡を逐ふ事に決定したのである。
 四月十六日奉天なる唐国別より西王母の服装を携行せよとの来電があつたので、其の用務をも兼ね、右三人は四月十八日奉天に向つて出発し、門司よりは偶々満韓視察の途次にありし大谷恭平が加はつて一行四人となり、心は既に蒙古の大原野に馳せ、汽船や汽車も間ドロキ心地で二十日夕奉天駅に着した。予て打電してあつたので、萩原、西島並に折柄在奉中の唐国別夫人等が一行を出迎へ、其筋の警戒厳なればとて、四辺を憚り乍ら稲葉町の中野といふ宅に案内された。翌二十一日一行は水也商会に趣き、王天海なる唐国別と会見したところが、王は不機嫌な面色で、藤田に向ひ、
唐国別『君等は一体奥地へ入る積りで来られたのですか』
藤田『左様です、勿論』
唐国別『左様です……なんて……冗談ぢやないよ。君等はさう容易々々と奥地へ這入れると思はれるのか。そりや誰だつて先生の側へ行きたいのは当然だよ、君等だけぢやない。しかし張作霖との複雑な関係を知りもしないで、ヤレ吾もソレ私もとやつて来られて耐るものか、僕の苦心は並大抵ぢやないよ』
と前置して日出雄来奉以後の事情を縷々と弁じ、此際日本人の入蒙することは絶対に断ると云ふ、甚だ意外な言葉であつた。
加藤『妾達は決して自分勝手に先生のお側へ行かうと云ふのではありませぬ。先生の御命令で参りましたのです。貴方も御存じの筈ですが……』
とて日出雄より来た親展書と、二代教主よりの三人の入蒙依頼書を差出した。唐国別は、
『あゝさうですか、私は些つとも知らなかつた。さうすると又新に三人の大先生を引受けた様なものだ。中々の大任だ。先生の入蒙に就ては、どんな苦心をしたか分りやしない』
とてこれから入蒙苦心談に夜を更かし、更闌けてから一行は宿に引取つた。然るに其後第二回の会見に於ては唐国別の態度激変し、
『先生の現在の御在所は自分には分りませぬ。また仮令大先生、二代様のお言葉でも、自分の考へに反した事は聞き容れる訳には行きませぬ』
とて断乎として三人に入蒙を拒絶した。三人は其傍若無人の言辞に驚き呆れ、且憤慨したが、扨何と詮術もないので、スゴスゴと引取る外はなかつた。
 四月廿六日に至り、大倉奥地より日出雄の消息を齎らし帰れりとの報告を唐国別より受けたので、一縷の望みもやと、三人は急いで唐国別の店舗を訪れ大倉に面会した。大倉は愛想よく口を開いて語る。
『先生は非常に御元気ですから御安心なさい。併し現在入蒙は余程困難ですが、先生より来いとのお言葉なれば、万難を排して奥地へお送り申しませう。又先生のお言葉なく共、強ひて入蒙せられると云ふのなら、同胞の誼として捨ておく訳にも行きませぬでなア』
 加藤等三人は大倉の此言葉に稍心勇み、先に唐国別夫人が『強いて入蒙する者は途中で殺つて了ふと某浪人が言つてますよ』との話の裏切られた嬉しさと、『先生のお言葉なら万難を排して云々』といふ信者ならでは聴く事の出来ぬ言葉を大倉の口から発せられた嬉しさに、此の機を外してはと思ふ矢先、唐国別は、
『当地に居て一切の事情に精通してゐる吾輩の言に従はず、まだ入蒙を主張するのは不都合だ』
と詰る。今迄口を噤んで一言も挟まなかつた国分は此時初めて口を開き、
『此先生からの御手紙が貴方の手を経て来たのなら貴方のお言葉に従ひもしませうが、之れはさうぢやないのですから、一応先生に御照会願ひたいものですな』
と言へば唐国別は頗る昂奮の態度であつたが、翌日自分を訪問した藤田を介し、左の如き意味の通告を三人に与へたのである。
『三人の入蒙は絶対に拒絶する。自分から手紙で先生の方へ……来奉者は追ひ返しますから御承知ありたし……と申遣はし、盧占魁には……軍の行動の邪魔になる事は先生の言と雖も聴従するな……と伝へ、尚使者に対しては……万一先生から自分の考へと違つた御返辞のある場合には途中で握り潰せ……と命じて置いた。それでも尚自由行動を取り入蒙せられるなら、途中の危険に対して吾々は責任を負はない』
 此の通告を受けた三人は熟議の結果、唐国別の口吻に女子の従軍禁制の旨もあつた様だから、此際加藤は断念し、国分、藤田の二人だけ入蒙を取計つて貰ふ事にしようと一決し、加藤は大倉を訪問して之を語つた所が大倉は同情して『兎に角先生の御指図を仰ぐ迄、地方見物でもなさいませ』との事に一縷の望みを残し四月廿九日から五月二日まで、三人は撫順、大連、旅順などを巡覧した。此間に萩原は写真機を携帯して入蒙の途に就いたのである。
 三人が再び奉天へ帰来した日、王敬義は唐国別の旨を含んで来訪し、
『唐国別に無断で何故大倉を訪問したか、それから旅順、大連などと出歩くのは不謹慎ぢやないですか』
と詰る。三人は王敬義を同情者と信じて居たので、
『唐国別より最後の通牒を受けましたので已むを得ず大倉さんに縋つたのです、そして大倉さんのお勧めに依つて見物に行つて参りました』と答ふれば、
王敬義『唐国別の言は一つの試練とは考へないですか』
加藤『さう思ひませぬでした』
王敬義『唐国別の言は瑞霊の神懸と認めませぬか』
 加藤は『ハイ、さうは思ひませぬ』とて今日迄の経過を精しく述べたので、王敬義も漸く心解けて、種々の便宜を計らふ事となつた。此時国分は憤然色をなして言ふ、
『唐国別の言を瑞霊の神懸とは何のこつた。王敬義の価値も茲に至つては零だね、共に語るに足る信仰ぢやないね。若しあの時加藤さんが……承認します……とでも云はうものなら、今後断然事を共にせない積りだつた』
と意気軒昂たるものがあつた。斯くして奥地よりの消息を待つ中に、日出雄より『此際女子の入蒙は困難なれば、日奉間を往復して連絡の用務を勤めよ』との伝達あり、国分、藤田に関しては何等の伝言なく、大倉の同情は全く一時の気安めであつた事判明し、藤田は『ナアニ、構ふものか、それでは飛行機を用意して来る』とて単身帰国して了つた。其後へ名田彦が使者として奥地より来奉し、種々消息を伝へたが、主として自身の苦心談や、愚痴のみにて要領を得ず、只僅に『暫く自由行動を採つて時機を待て』との伝言が含まれてゐるらしく思はれたので、加藤、国分の両人も遂に時機の到来せざるを察し、五月八日意を決して帰国の途に就いたのである。途々国分は微笑しながら、
『藤田君の飛行機入蒙計画もよからうが、今の世の中は黄金の弾丸に限るよ、金さへあれば浪人の鬼面も直ぐ恵比須顔に変るよ。さうすりや門番神を出しぬいて、道案内させる位は朝飯前の仕事だ』
と加藤を顧みて笑つた。帰来後三人は三様の活動方針を取つたが、其後加藤は米倉範治の紹介で嘗て満蒙の野に驍名を轟かせた劉武林事緑川貞司に師事し、馬術の稽古をはじめ、緑川を案内者として入蒙の意を果すべく湯浅清高、谷前清子、松村清香、東尾輝子等を招集すべく準備中、通遼の異変に接したのである。
 唐国別等が加藤等の入蒙を拒んだのは、加藤等の入蒙は大庫倫着の後と、予て日出雄から聴いてゐた外、何等の命令を受けなかつたからであつた。
(大正一四、八、筆録)
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