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文献名1霊界物語 入蒙記 山河草木 特別篇
文献名2第5篇 雨後月明よみ(新仮名遣い)うごげつめい
文献名3第31章 強行軍よみ(新仮名遣い)きょうこうぐん
著者出口王仁三郎
概要
備考2024/2/12出口王仁三郎全集第6巻を底本として校正。
タグ データ凡例 データ最終更新日2024-02-12 12:26:03
あらすじ
猪野軍医長は、盧占魁の軍隊が兵隊も減り始めたのを心配し、もう盧占魁と決別して別行動を取ろうかと提案した。真澄別は、神様の使命が一番に下ったのだから、行くところまで行かなければ仕方がない、と諭した。

岡崎は応援軍を組織するために、一足先に奉天へ戻った後であった。

盧占魁の実弟と、名田彦、山田、小林善吉その他支那人二名が、洮南に向かって強行軍に邪魔になる荷物を積み、一度奉天へ向かって戻っていった。彼ら一行は洮南で官憲に捉えられ、盧の弟は銃殺され、日本人は領事館渡しとなった。

真澄別は日出雄の意を受けて、隊の中でも一番の大部隊を率いている劉陞山と筆談を交わしていた。そして、今後の行軍予定は綏遠で冬籠りをすることだと聞かされた。

六月十一日に熱河区内のラマ廟に着いて、食料を満たすことができた。六月十三日にまたラマ廟に宿泊した。方向は依然として東南に戻り、奉天の張作霖の勢力範囲に近づいて行く様子なので、真澄別が問いただすと、盧占魁はただ、民家の多いところに行くとだけ答えた。

十四日の夕暮れに達頼汗王府と称する管内に入ったが、王府は王は不在であると誠に無愛想な対応であった。
主な人物【セ】源日出雄、萩原敏明、坂本広一、真澄別、猪野敏夫【場】白凌閣、盧占魁、守高【名】岡崎、名田彦、山田、包団長(包金山)、趙倜、趙傑、劉陞山(第9章・他では劉陞三)、大英子兒、盧秉徳(盧占魁の弟)、小林善吉、李景林、闞旅長(闞中将)、大石、矢野 舞台 口述日1925(大正14)年08月 口述場所 筆録者 校正日 校正場所 初版発行日1925(大正14)年2月14日 愛善世界社版275頁 八幡書店版第14輯 648頁 修補版 校定版279頁 普及版 初版 ページ備考
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本文  岩窟の附近もホノボノと明け初めた頃、馬を飛ばしてやつて来たのは萩原である。
萩原『昨晩真澄さんからのお知らせに依つて早速引返さうかと思ひましたが、どう云ふものか道筋が真暗で馬が一寸も進みませぬので、漸く只今参りました。昨晩は人家が四五軒あつた為、却つて混雑してゴタゴタしてゐましたから、お越しにならなかつた方が好都合でした』
坂本『ヤツパリ神様は前途が見える哩』
萩原『岡崎さんは非常に憤慨して盧占魁に当り散らしてゐましたよ。それから名田彦さんは病気で困つて心細がつて居ましたが、何でもポツポツ歩行いて引返して来るらしかつたですよ』
日出雄『そら可愛相だ。オイ白凌閣馬を曳つて名田彦さんを迎へて来い』
 白凌閣は直ちに駒に跨り、守高の乗馬を名田彦の迎馬として引具し駆け出した。それと入れ違ひに、五六頭駒の頭を立て並べて疾駆し来たのは、盧占魁と其副官連とであつた。盧は直ちに日出雄の側に行き叩頭して何事か弁じたが、生憎此場には山西省訛りの彼の支那語を通訳し得る者がなかつたが、要するに『露営に適当の場所を選定する為に急いだので、無断で行つたのは誠に済まなかつた。軍の整理もせねばならず、混雑してゐるから、自分の心裡を察して一緒に進んで貰ひたい』といふ意味であつたらしい。日出雄は唯、
『御苦労であつた』
との一言を残し、真澄別、守高を伴ひ岩山の頂上に登り、東天に向つて祝詞を合奏し、萩原をして記念の撮影をなさしめ、悠々として朝食を喫した。盧は再び日出雄の側に寄り懇願の意を表すると、日出雄も諾き乍ら馬に跨つた。
真澄別『先生またお進みなさるのですか、巧く話して別行動を取らうではありませぬか』
と引止むれば、
日出雄『折角盧も懇願するから皆の居る所まで行つて其上の事にしよう』
と出発を急ぐ。名田彦は山田と共に轎車に便乗し、司令部駐屯所迄進む事となつた。
真澄別『チエツ盧氏に曳かれて善光寺参りか』
 と呟き乍ら、日出雄が盧に促され砂煙りを立てて馬を急がすのを見送つた。途中まで出迎へに来た猪野軍医長と轡を並べ、何事か語り合ひつつボツボツ進み行く。
猪野『二先生、盧占魁を力にして居ては前途心細い事はありますまいか。岡崎さんは、現状では危くて仕方がないから、何とか方法を講じて来ると云つて、包団長の轎車に同乗して先程出発しましたよ』
真澄別『兎に角神様からの第一命令は盧占魁に下つたのだから、安全に入蒙出来たのは盧占魁の活動ぢやないか』
猪野『昨晩から段々兵隊も減る様だ……盧の命令は少しも権威がありませぬ。これ位な部隊の統一が出来ない様では不安で堪りませぬ。ヤハリ最初岡崎さんの計画で奉天へ日出雄先生のお住居まで用意して居つたと云ふ趙倜や趙傑をお利用になつた方が良かつたらうと思ひますが、何うでせう。岡崎さんも切りにさう言つて居られましたよ』
真澄別『神様の思ひと人間の想ひとは大変な相違のある者で、実際人間には善悪正邪を批判する資格もないのだから、要するに盧占魁は盧占魁としての使命があり、劉陞山には劉陞山としての使命があつて従軍してゐるのだから、最後迄行かなきや其真相は分るものでないよ。マア行く所まで行くのさ』
猪野『全く劉が却つて盧に命令する様な傾向ですよ。劉の隊は人数も一番多いし武器も揃ふてますからなア。私は何だか危険味を感ずるので、一度洮南へ帰つてみたい様な気が致しますが如何でせう』
真澄別『それは大先生に伺つてお定めなさい。私としては何れとも御勧めする訳には行かない。私は大先生自身を神と信じて居るので、仮令自分の考へと違つた言行が大先生にあつても、何事も其舞台々々の筋書は神様でなくては判らぬから、大先生に対し維れ命維れ従つて行くのだ。何だか最前の岩窟から前進するのは厭で仕方がないけれども、大先生がああして盧と一緒に進まれるのだから神に任せて行くのですよ』
猪野『そんなものですかなア』
 と腑に落ちぬ顔色で従ひ行く。此時の司令部の駐屯所は熱河の最北部に在る民家で、輓近大英子児が活動の根拠は、右の岩窟の附近だといふのも何等かの因縁事であらう。さて日出雄一行の到着した司令部は兵員整理の為如何にも混雑中で、岡崎は包金山と共に応援軍組織の為奉天に向つた後であつた。茲で陣容は一新され、乗馬や銃器の調のはざるものは、それぞれ旅費手当を給与して帰還の途に就かしめる事となつた。盧の実弟盧秉徳、名田彦、山田、小林善吉其他支那人二名は、洮南より来れる二台の轎車に分乗し、強行軍に邪魔になる様な携帯品をも積み込み、四百余支里の距離と称せらるる洮南に向つて帰奉の途に就いた。此一行は後に至り突泉にて支那官憲の手に捕へられ盧秉徳は洮南に於て銃殺せられ、日本側三名は領事館渡しとなつたのである。
 或る民家の一室には、真澄別が日出雄の意を受けて劉陞山と筆談を交換してゐる。其意味は左の通りである。
真澄別『一体此部隊は之から何方へ行く事になつてゐますか』
劉『物資の豊かな綏遠で冬籠りをするのだと云つてゐますから、先づ察哈爾へ向ふのでせう。それに就てはこれから三百支里程行つた所で、開魯の兵と一戦せねばなりませぬから、此処で可成り手足纏を少なくする様に計つたのです』
真澄別『あなたは何処迄も盧司令と行動を共にするお考へですか』
劉『大体私は何も知らずに参加したのです。奉天第一師長の李景林から、鄭家屯の闞旅長に手紙をやつた結果、闞中将も君等を保護すると云つてるから早く索倫へ行つて盧占魁の軍に参加せよとの事でしたから、実は盧軍の目的も何も聞かず、好きな道だから、早速手兵を率れて参加した次第ですが、私は兎に角大先生を中心にして何処迄も押立てる考へで居ります。おお司令も其処へ見えました』
 盧は此時微笑し乍ら入り来り、
盧『これで武器を携帯した騎兵のみ五百騎となりました。こんな所に駐屯して居ても仕方がありませぬから、今少し兵糧の得られる所まで参りませう。大先生は今日から轎車に乗つて戴く事に致します』
 とて直ちに出動の用意を整へた。劉陞山の部隊は先鋒に立ち、日出雄は自分の手廻り品と盧の貴重品を積み合はした轎車に乗り、盧占魁自ら馬を馭し、守高並に二三の支那将校は日出雄の轎車に附添ひ護り、真澄別は或は先頭に或は後方に出没して全軍を見守り、萩原は写真機を肩にして自由に飛び廻り、茲に西南に向ふて強行軍が開始せられることとなつた。但し宿営の場合には、日本人一同日出雄の側に集り一団となる事は忘れなかつた。
 六月十一日(陰暦五月十日)の朝、熱河区内の喇嘛廟へ到着する迄は時に数戸の民家を中心として休息する外殆ど昼夜兼行の強行軍で、索倫より携帯せし食料は已に尽き、巻煙草一本の喫み廻しも元が切れて了ふ。盧其他阿片の嗜好者は顔色憔悴して勇気頓に衰へ、馬の斃るる者或は落伍する者漸次増加の窮境に陥つた。漸くにして喇嘛廟において炒米の供給を得、附近民家より羊を購めて全員腹を充たす事が出来たのである。蒙古内地の喇嘛廟は概して小高き丘上又は山腹に建立せられ、本堂を最上中心として数多の僧坊が、それぞれ西蔵本山を模して羅列し、之を遠望すれば宛ら一大城廓の観がある。地方に依りて美観壮観に程度はあるが、一般民家の茅屋若しくは羊皮天幕住居に対照して、調和の取れない事夥しい。尤も之れは蒙古民族信仰の結晶として現はれてるのだから批判の限りではあるまい。又炒米は日本の粟を煎つた様なもので、其儘食べても香ばしい味がある。お茶若しくは牛乳をブツかければ猶更喰べ易い蒙古唯一の穀物である。此日より更に方向は一転されて東南指して進む事となつた。局面は展開して、或は小砂漠、或は砂山の僅かに草木の生ひ茂れる所を横断せねばならなかつた。
 六月十三日(陰暦五月十二日)又もや喇嘛廟に宿泊する事を得たが、方向は依然東南に向ひ奉天省の勢力範囲に近づく様子なので、真澄別が盧に糺すと、
『民家の多い所へ行かねば、兵糧と馬糧が不足して、何うする事も出来ませぬ』
 と力なげに答ふる許りであつた。漸くにして十四日の夕暮に近き頃、達頼汗王府の一族と称する管内に入ると、輪奐の美を極めた朱欄碧瓦の形容詞が相当しさうな喇嘛廟と王府が、約十丁許り離れて対立し、外に支那風建築の民家が十数戸建ち並んで居る。盧司令は王府へ使を遣はし面会を申込むと、王は不在なりとて数人の留守居が誠に無愛想な挨拶なのに、盧も不審の思ひをし乍ら、西南方の谷間に民家を捜し当て、一同の宿泊所と定めた。此処の喇嘛廟は全部戸を鎖し、猫の子一匹ゐない静寂さであつたのは、頗る一同の眉をひそめしめた。
 此夜薄暗き宿営の一遇に、日出雄は何事かヒソヒソと真澄別に向ひ囁いてゐたが、唯最後に真澄別の声として、
『洮南の御神勅に、今度の挙に必要な金は十万円だと承つて居ましたから、其れ以上の金額は早く言へば死金だと私は信じてゐます。そして最後に上木局子で大石氏に迫られて、先生が矢野さんへ送金する様依頼状をお書きに成つたなどは、全く一種の脅迫でしたね』
 と聞えたのみで、あとは犬のけたたましき鳴き声に夜は森閑と更け行くのであつた。
(大正一四、八、筆録)
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