六月二十一日の夜、日出雄が鴻賓旅館で捕縛されたとき、そこに泊まり合わせていた日本人某がふと庭にお取次ぎを行う杓子を見つけた。そして日出雄の歌と拇印が記されているのを認め、日出雄一行の遭難を知ったのである。
パインタラから一番の汽車に乗ると、鄭家屯の日本領事館に届け出た。領事館はすぐに土屋書記生を急行せしめ、二十二日の夕ごろにパインタラに着き、知事に面会して日出雄一行の引渡しを要求した。土屋書記生は獄舎につながれている日出雄一行にも面会し、安心するようにと言いおいて帰って行った。
書記生が来る前は、日出雄一行の処置に着いて、蒙古人として処刑することに決まり、準備をしていたそうである。ところが、日本領事館に知れたことがわかり、国際上の後難を恐れて、決行するに至らなかったという。
翌日、居留日本人会長・太田勤氏、満鉄公所の志賀秀二氏が面会に来て、官憲と種々協議の結果、ようやく手かせのみ解かれることになった。国際法によれば、領事館引渡し要求から二十四時間以内に引渡しを行うべきところ、三十日までパインタラに拘束されていたのは、日本領事館と現地官憲との交渉が難しかったためであるとのことであった。
四五日経ってから日本人一同は、パインタラ県知事の法廷に引き出され、馬賊でないかどうか取調べを受けた。一同は自分たちは馬賊ではないと言って反駁した。六月三十日には、鄭家屯において同様の取調べを受けた。
七月五日の夕暮れ、鄭家屯の日本領事館に引き渡されることになった。領事館にて一応の取調べを受けた後、久しぶりに湯を使った。監房で一夜を明かし、翌六日、奉天の総領事館に送られた。
奉天にはすでに名田彦、山田、小林らが収容されており、しばらくして大倉が入ってきた。取調べの結果、三年間支那からの退去処分ということに落ち着いた。日本から中野岩太、隆光彦が役員信者代表として奉天に出張し、奉天支部の西島と共に差し入れその他について奔走した。
七月二十一日に大連に着き、船で門司に送られた。日出雄は船内で船長や乗客に請われて大本教義についての公演や揮毫を求められた。日本の玄関口に到着したのは、七月二十五日であった。その光景はあたかも凱旋将軍を迎えるがごとき有様であった。