門司署の三階から街道を見れば、あまたの信徒が大道に列を作って自分らを見上げていた。自分は空前絶後の大業を企てたが、不幸にして中途で帰国するに至ったのも、神界の経綸として止む無きことではあるが、妻子兄弟、役員信者の胸のうちはいかばかりであろう、と思わず万感が胸に満ちた。
続いて下関所に送られ、しばらく休憩の後に自動車で駅に送られた。警察の門口には直霊が待っていた。汽車で大阪に向かい、途中大竹、上郡警察署の拘留所にそれぞれ一泊した。
相生橋署を経て大阪駅に下車すると、見物人が蟻の山のごとく、新聞社の取材班がレンズを向けて待ち構える中を、曽根崎署、続いて天満署の拘留所へ、そして同署の裏門から徒歩で若松支所に向かった。
支所内で書籍の差し入れを受けて、大本役員が債権問題について青くなっていることや、債権者が厳しい催促を始めたことがわかって、歯がゆい思いをしていた。結局九十八日間、入獄することになったが、その間に精神の修養をなし、日出雄の蒙古入りについての記事を読んだりして、あっという間に日々をすごしてしまった。
旧七月十五日の夜、女神が自分に朝日タバコを渡して、莞爾として姿を消したもうた。これは、朝日を渡されたので、やがて岩戸が開くだろうが、一服して時を待て、という意味であると知った。これにより、長期の入獄を覚悟した。
また、新暦十月の中ごろ、母と一緒に本宮山のような丘陵を歩いていると、大本信者が一人、一生懸命に雑木を伐り、土をひきならして道を開いていた。これは保釈を許される前兆であろうと知った。
その次は、自分が非常に高いとがった山の上に登ったが、下り道がどこにもない。すると白馬が二頭現れて、鎖をかけてくれたと見るや、ものすごい勢いで帰ってしまった。自分のために活路を開くべく奮闘している信者のあることを感じたのである。
ある日真澄別が面会に来て、霊眼で「十一」を見せてもらったという。果たして、日出雄の保釈が決定したのが旧暦十月一日であり、若松支所を出たのが新暦十一月一日の午前十一時十一分であった。
聖地では秋季大祭があり、分所支部長会議では財政整理問題について激論が始まっていた。そこへ、保釈の報が届いたので、一同神言を奏上し、大阪へ迎えに来たのであった。