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霊界物語あらすじ

説明を読む
ここに掲載している霊界物語のあらすじは、東京の望月氏が作成したものです。
まだ作成されていない巻もあります(55~66巻のあたり)
第47巻 舎身活躍 戌の巻 を表示しています。
篇題 章題 〔通し章〕 あらすじ 本文
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水戸の会沢伯民という儒者が書いた書物の中に、日本は太陽をつかさどり、世界の国々の中では頭にあたり、欧米は手足・胴体にあたる、といったことが真面目に書いてある。そしてそれにかぶれた連中がわが国民の中にも多少あるようだ。
日清・日露の両戦役に勝利して以来日本人はますます自負高慢となり、このごろの思想感情の中には、こういった誇大妄想狂的な論説が少なくないように思う。
日本は精神文明の国であるとしばしば唱えられているが、今日ではその精神文明においても西洋に数等劣っているのが実情なのである。
日本は霊主体従(ひのもと)といって、精神文明すなわち神霊の研究のためにすぐれた材料が豊富にかかわらず、今日の我が国の学会の趨勢を見れば、実に惨憺たるものではないか。
また、日本は武力についてはことに高慢の度が強く、武力をもってすれば何事も意のごとく解決できるものと思っている人も少なくないようだ。しかし大本の筆先に出ているように、二度の戦役で勝ったことに慢心していると、どんなことになるか分かったものではない。
頑迷固陋な国粋論者はいつまでも愛国心の誤解をしてかえって我が国を滅亡に向かわせるような言論を吹きたて、独りよがりの態度を持しているのは、実に国家のために悲しむべきことである。
この物語も決して日本の身に偏重したことは述べていない。世界統一的に神示のままに記述してあるのみである。まだ迷夢の醒めない人々は、この物語を読んで不快に感じる人もあるであろうが、真理は感情や意志をもって枉げることはできない。
神道も仏教も耶教もその最奥を極めれば同一の神様の教えであることを悟り得られるのである。ゆえに、神の道を研究する人は広き清き偏波無き心をもって真面目にかかっていただきたいものである。
本文
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最上天界である高天原には、宇宙の造物主なる大国常立大神が天地万有一切の総統権を具足して神臨したもう。大国常立大神のまたの御名を天之御中主大神と称え奉る。無限絶対の神格を持し、霊力体の大原霊と現れたもう。
この大神の御神徳が完全に発揮されたのを天照皇大御神と称え奉る。そして霊の元祖たる高皇産霊大神は、またの御名を神伊邪那岐大神、また日の大神と称え奉る。体の元祖神皇産霊大神は、またの御名を神伊邪那美大神、また月の大神と称え奉る。
このことはこの物語にしばしば述べられているとおりである。また高皇産霊大神は霊系にして、厳の御霊国常立大神と現れ給ひ、体系の祖神である神皇産霊大神は、瑞の御霊豊雲野大神またの御名豊国主大神と現れ給う。
厳の御魂は天照大神と顕現して天界の主宰神とならせ給うた。ちなみに、天照皇大御神様と天照大神様は、その位置、神格、御神業について大変な差があることを考えなければならない。
また瑞の御魂は神素盞嗚大神と現れ給い、大海原の国を統御あそばす御神誓である。
神界においては、一切の絶対的神権を宇宙の祖神大六合常立大神に御集めになったのである。さて、厳の御魂に属するものはすべて瑞の御魂に属せしめ給うたのであるから、瑞の御魂は厳の御魂と同体神ということになる。
厳の御魂を太元神と称え奉り、瑞の御魂を救世神、救神、主の神と単に称するのである。この物語において主の神とあるのは、神素盞嗚大神様のことである。
主の神は宇宙一切の事物を済度すべく天地間を昇降あそばしてその身魂を分け、あるいは釈迦と現れ、あるいはキリストとなり、マホメットとなり、その他種々雑多に神身を変じ給ひて天地神人の救済に尽くさせ給う仁慈無限の大神である。
前に述べたとおり、宇宙一切の大権は厳の御魂・太元神に属し、太元神に属する一切は瑞の御魂の属している以上は、神を三分して考えることはできないのである。心に三を念じて口に一をいうことはできないのである。
神素盞嗚大神は救世神ともいい、仁愛大神とも申し上げ、撞の大神とも申し上げる。
この霊界物語には産土山の高原・伊祖の神館において神素盞嗚尊が三五教を開き給い、多数の宣伝使を四方に派遣し給う御神業が描かれている。これは決して現界ばかりの物語ではない。
霊界すなわち天国や、精霊界(中有界)、根底の国まで救いの道を述べ伝え給うた事実である。
一方、ウラル教、バラモン教、ウラナイ教などの物語は、たいてい顕界に関した事実が述べているのである。ゆえに三五教は内分的の教えを主とし、その他の教えは外分の教えをもって地上を開いたのである。顕幽神の三界を超越した物語というのは、右の理由から出た言葉である。
主の神である神素盞嗚大神は、愛善の徳をもって天界地上を統一し給う。主神は天地を一個人のごとくにして統御し給うのである。数多の宣伝使は主神という一個の神格の一部分として、神経なり繊維なり血管なりの活動をなしているのである。
このようにして天人や宣伝使の部分的な活動も、みな主神と一体となって神業の奉仕し、全局は部分のために、部分は全局のために、統一的全体の形式を保持し、かつ相互の福祉を勧め、一体となって活動しているのである。
用を遂げるというのは、総局の福祉をまっとうするために他の順利を願うというのがその意義である。用を遂げないというのは、総局の福祉を顧みずにただ自家のために他の順利を願うということである。
天界にあるものは、すべて主神をもって唯一とし、万物が由って来る大根源とするため、ことごとく一体となって活動するのである。
福祉というのは正義(ただしき)という意味である。現世に在って、国家社会の福祉正義を喜び、隣人の福祉をもって自己の福祉のごとく喜ぶものは、他生においては主神の国土を愛して求めるものである。
三五教の宣伝使はみな、主の神の全体または個体として、舎身的大活動を不断に励みつつある神使のみである。実に神明の徳の広大無辺であることに驚かざるを得ない次第である。
願わくは大本の宣伝使たる人は神代における三五教の宣伝使の神業に神習い、一人残らず主の神の御意志を諒解し、国家社会のために大々的活動を励み、天国へ永住すべき各自の運命を開拓し、かつ一切の人類を天国の楽園に上らしむべく、善徳を積まれることを希望する次第である。
太元神を主神といったり、救世神瑞の御魂の大神を主神といったりしてあるのは、ここに述べたとおり、太元神の一切の所属と神格そのものは一体であるからである。
主の神である神素盞嗚大神は、神典古事記に載せられたごとく大海原をしろしめす御天職があらせられることは明白な事実である。
主の神は天界も地の世界も治め統べ守り給うが、天国と言ってもやはり山川草木一切の地上と同一の万類があり、土地も厳然として存在しているから、天界地球両方面の主宰神といってもあまり錯誤ではあるまい。
天界または天国といえば、蒼空にある理想国、主観的な霊の国だと思っている人には容易には承認されないであろう。天国にも大海原すなわち国土がある。ただ、善と真と知恵と正覚を得た個人的天人の住居する楽土である。
ゆえに、主の神は天地を統御按配し給い、また大海原の主宰である主の神が、天界の国土と地上の国土を守護し給うのは、むしろ当然なのである。
本文
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01 01 〔1234〕
治国別は、松彦、五三公、万公を野中の森に残して(第44巻第16章を見よ)、竜公一人を伴い、神の命を奉じて浮木の森のバラモンの陣中に進もうと道を急いだ。怪しの森の守衛たちは、酒に酩酊して二人が通るのを少しも気が付かなかった。
浮木の村の入り口に進んだ折り、タールとアークの両人は大きな眼を開けて不寝番として控えている。夜が明けてきて、二人は四方山話を始めた。
タールは三五教の悪神・素盞嗚尊が聖地を蹂躙することをなんとしても防がねばならない、というが、アークはバラモン教が悪だと知ったから気に入っているのだ、そのバラモン教を邪魔する素盞嗚尊は善だろうが悪だろうが滅ぼすのだと気炎を上げている。
アークとタールは、もし河鹿峠の勝ちに乗じて三五教がやってきたら、落とし穴に落とし込んでやろうと企んでいる。そこへ治国別と竜公がやってきた。
二人は治国別の姿を見て、腰を抜かしておののいてしまった。治国別は、ランチ将軍、片彦将軍のところへ案内してほしいと二人に頼むが、二人は動けない。
タールは、わざわざ敵の陣中に乗り込んできてひと悶着あるよりも、ここはお互いに身を引いた方がよいと治国別と竜公に提案するが、治国別はランチ将軍と片彦将軍に善言を与えて高天原に救い上げようと、元バラモン軍の竜公を案内者としてやってきたのだ、と譲らない。
治国別がアークとタールに案内いたせ、と命じると、いつの間にか抜けていた腰は回復し、陣幕の南の方を指して案内に歩き出した。
治国別と竜公が後に従って歩いていくと、にわかに足元が転落して深い落とし穴に落ち込んでしまった。落とし穴の底には、林のように鋭利な槍が空地なしに立ててあったが、両人は神のお守りの厚いためか、都合よく槍と槍の間に落ち込み、少しも傷は負わなかった。
アークとタールは三五教の宣伝使を仕留めたと喜んだ。アークは得意顔でランチ将軍に報告に向かった。
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01 02 〔1235〕
治国別は竜公をいたわった。見れば穴の上にはタールがいる。竜公は、タールはもともとは人間のいい奴だから、善悪どちらにも傾くというと、治国別はタールの説得を竜公に命じた。
竜公は、自分はわざと治国別のところに入り込んで、ここまで宣伝使をおびきよせたのだ、と呼びかけて梯子を下ろさせた。しかし梯子から上がってきたのは治国別であった。治国別は、竜公は幽霊となったと言っておいて、後から竜公が上がってきてタールをおどかし、からかった。
タールは、今にアークが大勢の軍勢を連れてやってくるから、今のうちに逃げた方がよい、自分も供としてついていくから、と心配するが、治国別は笑って取り合わない。
そのうちにアークが数十人の騎士を引き連れてやってきて、治国別一行を取り囲んだ。アークは召し捕るように下知するが、治国別が天の数歌を奏上すると一同は身体が強直して馬上から転倒してしまった。
治国別は今度は、竜公に天の数歌を奏上させた。すると騎士たちは少しの怪我もなく身体は元に戻った。騎士たちは手早く馬にまたがって逃げ帰って行く。
後にはアークただ一人、どうしたものか体の自由がきかない。竜公がなにほど祈っても、アークの強直状態は直らなかった。治国別は、アークは自分に危害を加えようとしたから、自分が祈願してやらなければだめだろうと言って、暗祈黙祷した上で許す、と一言述べた。
アークの体は元に戻り、アークは治国別の前にひざまづいて涙を流しながら重々の無礼を謝した。治国別は自分はかすり傷一つ負っておらず、神の警告を示してくれた導師だと答えた。
そしてアークに、ランチ将軍への面会を依頼した。アークは感謝を現し、ランチ将軍に三五教への降伏を進めるように取り計らうと述べると、駒にまたがって陣中に帰って行った。
どうせランチ将軍の前に出たら前言を撤回してまたバラモン教に逆戻りするだろうと竜公が批評した。タールは、このごろアークはバラモン軍の中で決死隊を組織しているほど骨がしっかりしてきていると弁護した。
竜公が、そのアークが組織したという「国士会」の会則を見せてもらうと、立派な趣意書が書かれていたが、後に決意が骨抜きになるような但し書きが並んでいた。それを見て治国別と竜公は笑った。
二人はタールに案内されて、浮木の村の陣屋を指して宣伝歌を歌いながら進んで行く。
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01 03 〔1236〕
治国別は竜公とタールを伴い、浮木の里のランチ将軍の陣営を指して進んで行く。竜公は意気揚々として先に立ち、四方の景色を眺めながら新派口調で歌いだした。
治国別は神の愛と信と智慧証覚にみたされ、強敵の陣営に武器も持たずに進んで行くについても、里帰りするような心持で歌を歌いながら進んでいった。その雄々しさ、悠揚たる態度に感化されて、竜公もタールもすっかり天国旅行の気分になってしまった。
タールは平等愛と差別愛の違いについて、治国別に問いかけた。治国別は、差別愛は偏狭な恋愛のようなもの、平等愛は普遍的の愛、いわゆる神的愛だと簡単に解説し、新派様で歌いだした。
治国別は歌に籠めて、生来の差別愛から神的な平等愛に進む道は、惨憺たる血涙の道をゆかなければならない、と戒めた。そしてもう一首、信仰と法悦の信楽について歌い、それは現代の冷たい哲学や科学の斧によって幻滅の非運にあうような空想的なものではなく、神の持ち給へる愛の善と真の信とによって、智慧と証覚の上に立脚した大磐石心であると諭した。
前方からはランチ将軍が数十人の騎馬隊を引き連れて猛烈にやってきた。先頭に立っていたのはさきほど治国別に膏を絞られて助けられたアークであった。
アークは治国別に丁寧にお辞儀をし、迎えに来たので馬に乗って一緒に来てほしいと懇願した。治国別がランチ将軍はどなたかと尋ねると、将軍は馬を飛び下りて揉み手をしながら現れた。
ランチ将軍は治国別の前に仕立てに出て陣営に迎えようとする。治国別はランチ将軍の言葉を額面通りには信じていなかったが、彼を正道に導く好機と心に定め、差し出された馬にまたがって陣営に入って行った。
竜公とタールは陣営で軍卒どもが取っている相撲に見とれて、治国別が奥へ進んで行ったのに気付かなかった。土俵ではエキスが何人もの軍卒を投げつけて腕を誇っている。竜公は思わず土俵に飛び出し、エキスに挑んだ。
かねて対戦したことのある両者はたがいににらみ合いひとしきり掛け合った後、四股を踏んで潮を投げつけ、四つに組んだ。半時ばかりも組み合う長丁場にさすがのエキスも力尽き、隙をついて竜公がまわしを三辻をたたくと、土俵の中を転がって西のたまりへ転げ落ちてしまった。
エキスは面目をつぶし、裸のまま陣中の奥へ姿を隠した。賞賛の声、拍手の音はあたりもゆるぐばかりであった。
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01 04 〔1237〕
ランチ将軍は、治国別を陣中に迎え入れてこの強敵を滅ぼそうと煩悶苦悩している最中であった。宣伝使の危難にも、部下たちはお祭り気分で喜楽に相撲を取ってさざめきあっていた。
陣屋の奥でランチ将軍、片彦将軍、治国別が酒を酌み交わして宴の最中、あわただしくエキスがやってきた。そして、竜公が三五教に寝返ったことを奏上し、彼を捕えたいと願い出た。
ランチ将軍は、すでに三五教とは和睦がなったと言って治国別を紹介し、竜公にも酒をふるまったらよいと鷹揚なところを見せた。竜公の様子を尋ねられたエキスは、相撲を取って実は竜公に負けたことを遠回しに白状した。そこへ竜公がやってきた。
ランチ将軍と片彦将軍は、竜公を宴に招き入れた。酒に酔った治国別と竜公は、奥の間で休むようにとランチ将軍と片彦将軍に誘われ、奥座敷に案内された。しかしこの居間は罠であり、二人は地下の水牢に落ち込んでしまった。
二人は岩窟に頭を打って気絶してしまう。ランチ将軍、片彦将軍、エキスは手を打って愉快気に笑い散らした。ランチ将軍、片彦将軍はエキスに命じて怪しの森に張り込ませ、ひとつには三五教の宣伝使の通過を見張り、ひとつには美人を捕えて陣中に連れてくるように言いつけた。
ランチ将軍と片彦将軍は、宿敵治国別を捕えることができたのもアークとタールの功績だと、奨励のために二人を昇進させ、一切万事の相談をする幹部に抜擢した。しかしこのとき、二人はすでに心機一転して内心三五教の信者となっていたのであった。
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01 05 〔1238〕
アークは郊外を散歩しながら、科学知識のみを頼む現代人の無常さを嘆く歌を歌い、ひるがえって、自分が愛善の火と真信の光にめざめることができたことを神に感謝した。
タールは、アークもずいぶん変わったものだと話しかけた。二人は治国別の身の上を案じ、どうなったか気にかけつつ、詩歌を歌ったりなどしながら歩いている。
二人は、いずれランチ将軍、片彦将軍も治国別の徳によって三五教に帰順するだろうから、それまでバラモン軍に籍を置いて我慢するのみだと話し合っている。
そこへエキスがウラナイ教の元教主・蠑螈別を駕籠に載せて陣中に迎え入れてきた。自分の手柄を誇って威張り散らすエキスに対し、アークとタールは自分たちも昇進したのだから威張るなとたしなめ、エキスがうまい汁を吸ってきたのを悟ってからかった。
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01 06 〔1239〕
雪が降りしきる中、怪しの森ではコー、ワク、エムが火を焚いて車座になり、雑談にふけっている。三人は、ランチ将軍は浮木の森にしっかりとした陣営を立てていて一年くらいはイソ館に向かって進軍する気遣いはないと話している。
三人は蠑螈別の連れていたお民の話から、男女論に発展する。ワクは女性を擁護し、エムは男性の立場からそれぞれ議論を戦わせる。かく三人が笑い興じているところへ、白い顔をした妙齢の美人が現れた。
女は三人に、ランチ将軍・片彦将軍の陣営の場所に案内してほしいと願い出た。三人が何者か尋ねると、女は自分は三五教の宣伝使・清照姫であり、もう一人は妹分の初稚姫であると答えた。
三人は、有名な三五教の女宣伝使たちだと知って早くもおじけづいた。清照姫と初稚姫は三人の煮え切らない態度に、通り過ぎて自力で陣営に行こうとする。三人は、それでは自分たちの面目が立たないと清照姫と初稚姫に懇願して、二人を陣営まで案内することになった。(この二人は実は白狐だった。第48巻第6章を見よ)
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02 07 〔1240〕
智仁勇兼備の三五教の宣伝使・治国別もランチ将軍の奸計に陥り、地下の牢獄に転落して気絶してしまった。肺臓の呼吸は微弱となり、心臓の鼓動は休止し、治国別は竜公と共に見慣れぬ山野を彷徨していた。
想念の向かうままに進んで行くと、一方は屹立した山岳、一方は巨大な岩石に挟まれた谷間の狭いところに迷い込んだ。ここは中有界の入り口である。中有界は善霊・悪霊の集合地点で、一名精霊界ともいう。
治国別と竜公はいぶかりながらも進んで行くうちに、ランチ将軍の計略にかかって命を落として中有界にやってきてしまったことに気が付いた。
竜公は、死後の世界が生前よりも知覚・想念がはっきりとしていることに驚きを表した。治国別は、天国に昇って天人になる精霊を本守護神といい、善良な精霊を正守護神といい、悪の精霊を副守護神というと解説した。
二人が話しているところへ一人の守衛が現れた。守衛は三五教の治国別一行であることを確認すると、ここは精霊界の八衢であると告げ、二人を関所に通じる道に導いた。
治国別の供をしてどこまでも一緒に行きたいという竜公に対して、守衛は、善・信・智慧・証覚が同程度の者同士でないと同道できないのだ、と諭した。守衛は途中の谷道まで二人を案内し、関所への道を示すと、自分はまだ他の精霊の案内をしなければならないからと、光となってどこかへ飛んで行ってしまった。
二人が歩いていくと、万公が歩いているのに出会った。竜公が万公に話しかけ背中をたたきかけたところで、万公は消えてしまった。
治国別は、万公は現界にいるのだが、精霊のみが自分たちを心配して探しにきたのだと諭した。そして、肉体のある精霊に言葉をかけるものではないと竜公に気を付けた。
二人は赤い門を見つけて近づいて行った。赤門の前には二人の守衛がいた。一人は光明輝かしく優しい顔つきの男とも女とも知れない者、もう一人は赤面の唐辛子をかんだような顔をした男である。二人は秤の前に厳然として控えている。
優しい白い顔の守衛は竜公には秤に乗るように促した。赤い顔の男は、竜公は今のまま測ったなら地獄行きだが、死期はまだ来ておらず、肉体であと五六十年は活動するはずだと告げた。そして娑婆へ帰ったなら地獄へ落ちないように善をおこない、神を信仰し人のために誠を尽くすように諭した。
白い顔の守衛は懐から帳面を出して確認すると、治国別の寿命もまだ残っていた。守衛はまた数十年後に二人を測ることにしようと言い渡した。
そこへ、へべれけに酔った一人の男がやってきた。男はお寅の元夫でウラナイ教に暴れこんで千両の金を恐喝した熊公であった。熊公があまりに騒いで手に余った守衛は、伊吹戸主大神を呼んできた。
伊吹戸主大神は閻魔大王のような厳めしい容貌で現れ、四方を照らすその光明に竜公は目がくらんで大地に倒れてしまった。大神や守衛たちの様子にようやく気が付いた熊公は、生前の罪を測られることになった。
熊公は一度は地獄行きを言い渡されてしまうが、伊吹戸主大神の御慈悲により、残りの金がなくなるまで娑婆に返されることになった。
熊公は酒を飲み歩いている間に、酒屋の門口でぶっ倒れて人事不省になっていたのであった。目が覚めた熊公は恐ろしい夢を見たと改心し、人通りの多い街道に出ると貧しい者たちに金を施しはじめた。熊公はついには善良な三五教の信者となり、一生を送ることになった。
本文
02 08 〔1241〕
人間がこの世に生まれたばかりのときは、その意志の方面は自己の都合のいいことばかりを考えており、悪しきことばかりである。この不善な意志を根本的に改めて善に遷らせるために、誠の神様より人間に対して真理を会得すべき直日の霊の力が付与されているのである。
人間の天賦の智性の中の真が、意志中の善と相和合しない間は、まだ中程の状態にある。現世の人間はたいていこの状態にある。一方では悪を愛する心から心理に背反する動作をなす者もある。
人間は、高天原と根底の国のいずれか一方に適従するため、霊肉が離脱した死後にはまず、中有界に導きいれられる。中有界(精霊界)において、高天原に昇るべきものは善と真の和合が行われ、根底の国に投げ入れられるものは悪と虚偽の和合が行われる。
治国別、竜公両人が中有界(精霊界)において伊吹戸主神から受けたまわった霊界の消息について、その大略を述べる。
まず地獄界の入り口は、精霊界に対して硬くふさがっている。ただわずかに岩間の隙間のような裂け口があり、あるいは大きな門戸があって暗い道がわずかに通じ、ふんぷんたる臭気を帯びた風が吹いているのみである。
地獄の入り口は守衛が厳しく立っていて、みだりに人間の出入りを許さないことになっている。地獄を探検することは、伊吹戸主神の許しを得なくては容易に許されない。ただ現界へ帰って人間に霊界のことを説き諭したり、緊急の必要がある場合にのみ許されるのである。
瑞月が高熊山の聖城において地獄界を探検したのもやはり八衢の神の許可を受けて行くことができたのである。
高天原へ上る道も四方がふさがり、容易に見当たらない。わずかにひとすじの小さい道が通ってあって守衛がこれを守っている。しかし高天原へ上る資格のないものには到底見ることはできない。
中有界は山岳と岩石の間にあるけわしい谷に似たところが多い。高低があり、大川、深い谷、広野など種々雑多の景色が展開している。中有界に迷っている精霊には、高天原への道や地獄への道は到底発見することはできないようになっている。
高天原に上る準備ができたものは、精霊界から天国の各団体に通じるひとすじの細い道を登って行き、次第に道は分かれて数条となり、おいおい幾十条にもわかれて各団体に通じているのである。
根底の国に通う入り口は、これに入るべき精霊のために開かれる。善霊すなわち正守護神は、その入り口から出てくる悪臭を忌み嫌い、恐れて一目散に逃げ去るが、地獄の団体に籍を置いている悪霊すなわち副守護神は、この暗黒と悪臭を悦び楽しむがゆえに、勇んで地獄の入り口に飛び込むものである。
実に大本開祖の神示にある身魂相応の神の規則とは至言というべきである。すべて人間には、高天原に向かう門と、根底の国に向かう門、二個の門が開かれている。
高天原から流れてきた神様の光明は、情報の隙間からわずかに数条の線光が下がっているにすぎない。人間がよく思惟し究理し言説するのは、この光明によるのである。善に居り真に居るものはおのずから高天原の門戸が開かれているのである。
人間の理性心に達する道は内外二つに分かれている。もっとも高い道は内分であり、、愛の善と信の真とが大神より直接入り来る道である。もう一つは低い道、外部の道である。外部の道は根底の国からあらゆる罪悪と虚偽が忍び入る道である。
内部外部の道の中間に位置しているのが理性心である。高天原より大神の光明が入り来るかぎり、人間は理性的であることを得る。これを拒んで入れなかったならば、その人間の実性はすでに滅びているのである。
人間の理性心は精霊界に相応している。その上にあるものは高天原に相応し、その下にあるものは根底の国へ相応する。高天原へ上る準備を成したものは、その上方の事物がよく開けている。そして下方の事物はまったく閉塞して、罪悪や虚偽の内流を受けない。
これに反して根底の国へ陥るべき準備をなせるものは、低い道すなわち下方の事物は開けているが、上方の事物すなわち霊的方面はまったく閉鎖しているがゆえに、愛善と信真の内流を受けることができない。
頭上をあおぎ高天原を仰ぎ望むは、すなわち大神を拝しその霊光に触れ、無限の歓喜に浴することができる。しかし足下すなわち下方を望むものは真の神に背いている身魂である。
本文
02 09 〔1242〕
善とはこの世の造り主である大神の御神格より流入してくる神善である。この神善はすなわち愛そのものである。真とは大神の御神格より流入してくる神真である。この神真は、すなわち信である。
愛にも善があり、悪がある。愛の善とは霊主体従であり神から出た愛である。愛悪とは体主霊従といって自然界における自愛、また世間愛をいう。これは己が種族を愛し、郷里を愛し、国土を愛するがために他をしいたげ、亡ぼして自己団体の安全を守る偏狭的愛である。
信仰には真と偽がある。真の信仰は心の底から神を理解し神を愛し信じ、かつ死後の生涯を固く信じて神の御子たる本分を尽くし、何事も神第一とするところの信仰である。
偽りの信仰は内心に悪を包蔵しながら表面宗教を信じ、寄付金を誇示したり処世上の都合で信仰を装ったりする。神仏をかつお節として自愛の道を遂行しようとする悪魔の所為のことである。このような信仰は神に罪を重ね、自ら地獄の門扉を開く醜行である。
高天原の天国や霊国にあっては人の言葉はみなその心から出るものであるから、言うところと思うところは一致している。心の中に三を念じて口に一つを云うことはできない。これが高天原の規則である。
天国は日の国であり、霊国は月の国である。真の神は月の国においては瑞の御霊と現れ給ひ、日の国においては厳の御霊の大神と現れ給う。厳の御霊の大神のみを認めて、瑞の御霊の大神を否むような信条では、高天原の圏外に放り出されるものである。
かくのごとき人間は内流がないために思索力を失い、正当な思念を有しえず、手は垂れ四股関節はまったく力を失ってしまう。また瑞の御霊の神格を無視し、その人格の身を認めるものも同様である。
天地の統御神たる日の国にまします厳の御霊に属する一切の事物は、残らず瑞の御霊の大神の支配権に属しているのである。瑞の御霊の大神は、大国常立大神をはじめ日の大神、月の大神そのほか一切の神権を一身にあつめて宇宙に神臨したまうのである。
この大神は天上、中有界、現界、地獄を統御したまう。厳の御霊大神は万物の父であり、瑞の御霊の大神は万物の母である。瑞の御霊の大神はすべての神々の御神格を一身に集注したまう。
その神より起こり来る御神格によって、高天原の全体は成就し、また個々の分体が成就しているのである。人間の霊体、肉体もこの神の神格によって成就している。そして瑞の御霊の大神より起こり来る神格とは、すなわち愛の善と信の真である。
高天原の天人はすべてのこの神の善と真とを完全に摂受して生命を永遠に保存しているのである。現界の人間の志すところ、為すところは決してそれ自身善でも真でもない。それは御神格より来る活力を欠いているからである。
御神格の内流を見得し、感得し、摂受して立派な高天原の天人となることを得るのである。人間には一霊四魂がある。一霊は真霊であり、神直日、大直日と称する。神直日とは神様特有の直霊であり、大直日とは人間が神格の流入を摂受した直霊をいうのである。
四魂は和魂(親)、幸魂(愛)、奇魂(智)、荒魂(勇)をいう。四魂は人間のみならず、高天原にも現実の地球の上にもそれぞれの守護神として厳存している。信の真は四魂の本体となり、愛の善は四魂の用となっている。
直霊は瑞の御霊の大神の御神格の御内流すなわち直流入された神力である。ゆえに瑞の御霊の御神格はすべての生命の原頭とならせたまうものである。
われわれ人間の運命は、この神より来る神善と神真をいかに摂受するかによって定まるものである。そこで信仰と生命にあってこれを受けるものは、その中に高天原を顕現する。これを否むものは地獄界を現出する。
人間の意志的生涯は愛の生涯であって、善と相関し、知性的生涯は信仰の生涯であって、真と相関するものである。一切の善と真とはみな高天原より来るものであり、生命一切のこともまた、高天原より来ることを悟り得るのが天人である。
人の知識や善行もそのとおりである。善のためになせる善は、神格の内流より来ている。自己のためになす善は、決して善ではない。高天原はこのような善すなわち神格によって成立している。
人間在世のときにおいて、自ら為した善、自ら信じる真をもって、自らの胸中より来るものとなし、自分の所属と信じているものは、どうしても高天原に上ることはできない。善行の功徳を求めたり、自ら義としたりするものは、大神の神格を観ない真理に暗い痴呆者というのである。
またそうした者たちは、もともと大神の所属となすべきものを己に奪おうとするゆえに、神からは天の賊と称えられるのである。そのような人間は、大神の御神格を天人が摂受するものである、という信仰に逆らっているのである。
瑞の御霊の大神は、高天原の天人と共に自家存在の中に住み給う。ゆえに大神は、高天原における一切中の一切であることは言うまでもないことである。
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02 10 〔1243〕
治国別と竜公は、伊吹戸主神の関所で優待されしばらく休息していた。するとその前を勢いよく通りかかった六十男がある。赤顔の守衛があわてて男を引き留める。
男は鬼淫偽員の欲野深蔵だと名乗り、威張りかえっている。守衛たちに尋問された深蔵は、逆におかしな理屈をまくし立て、大股で関所を突破しようとした。
この騒ぎに伊吹戸主の神は関所の窓を開けてちょっと覗かせ給うた。欲野深蔵は伊吹戸主神の霊光に打たれてその場に悶絶し、泡を吹いて苦しみだした。番卒たちは深蔵の体を荷車に乗せ、地獄道の大門内へ運び去ってしまった。
八衢では、色の白い守衛が天国に行くべき人間を調べ、恐ろしい顔の赤い守衛が地獄へ行くべき人間を調べることになっている。
しばらくすると、バラモン教の宣伝使がここをくぐろうとした。宣伝使は自分が死んだことに気付かずに門を通ろうとするが、守衛に一喝されてようやくここが死後の世界であることを認めた。
守衛の取り調べにより、この宣伝使は神を信ぜずに世人を迷わせた偽宣伝使であることが判明したが、神の存在を無信仰者に伝えた徳によって地獄行きだけは免れた。そして、しばらく中有界で心を磨いて修業する猶予を与えらえた。
守衛は、その間に神様の御神格の内流を得て善と真を知覚し、意識し、証覚しうるものであり、自分の力でそれを得ると思ったら、たちまち天の賊となって地獄へおちなければならない、と注意を与えた。
治国別と竜公は、この様子を見ながら話し合っている。治国別は、善のために善をおこない真のために真を行う真人間にならなければならないと自らを省みた。そして、少しばかり言霊が利くようになったのは自分が修業した結果神力が備わったと思っていたが、それはたいへんな間違いであったと悟った。
いずれも瑞の御霊・神素盞嗚尊様の御神格が自分の精霊を充たし、肉体をお使いになっておられたということに思い至った。そして神様の恵みによってはっきりと霊界の様子を見、悟らせていただいたことに感謝を表した。
治国別と竜公が、神の諭しへの感謝の涙に暮れていると、伊吹戸主神は会釈して座を立ち、館の奥深くに入らせ給うた。二人がその姿を見ると、伊吹戸主神は丸い玉のように光り輝き、その神姿は判然と見えず、月のような光が七つ八つ九つの円球の周囲を取り巻き、次第に奥の間に隠れ給うのだった。
智慧と証覚のすぐれた神人を、それより劣った証覚者が拝するときは、光のように見えて目もまばゆくなるもののである。神の神格は神善と神真であり、それより発する智慧証覚はすなわち光である。
二人は愕然としてものも言わず、再び関所に目を放ち、ここに集まり来る精霊の様子を瞬きもせずにうかがっていた。
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02 11 〔1244〕
人間の肉体は精霊の容器であり、天人の養成所である。一方で邪鬼、悪鬼の巣窟ともなる。この変化は、人間が主とするところの愛の情動如何によるのである。
人間が現世に住んでいる間は、すべての思索は自然的であるゆえに、人間の本体である精霊が、精霊の団体中に加わることはない。
しかしその想念が肉体を離脱する時は、各自所属の団体中に現れることができる。肉体を持っている精霊は、思いに沈みつつ黙然として徘徊しているので、精霊たちはこれをすぐに区別できる。精霊がこれと言葉を交わそうとすれば、肉体のある精霊は忽然として消失するのである。
人間が肉体を脱離して精霊界に入るときは、睡眠でもなく覚醒でもない、一種異様の状態にいる。そのときその人間は、十分に覚醒していると思っているし、諸々の感覚も肉体が覚醒しているときと少しも変わりはない。むしろ五感は精妙となる。
この状態で天人や精霊を見るときは、その精気凛々として活躍するを認めることができ、また彼らの言語も明瞭に聞くことができる。また親しく接触することもできる。
この状態を霊界では肉体離脱の時と言い、現界から見たときは、死と称しているのである。人間は、その内分すなわち霊的生涯においては精霊である。人間の想念および意志に属することからそのようにいうことができる。
意志・想念に属している事柄は人の内分であって、霊主体従の法則によって活動する。これが人をして人たらしめている所以である。人は、その内分以外に出ることはできない。だから精霊すなわち人間なのである。
肉体は精霊の活動機関である。本体である精霊の諸々の想念や情動に応じて、自然界における諸官能を全うする。肉体がこの機関としての活動を果たせなくなったとき、それを肉体上の死と呼ぶのである。
精霊と呼吸および心臓の鼓動との間には、内的交通がある。精霊の想念は呼吸と相通じ、愛より来る情動は心臓と通じている。肺臓と心臓の活動がまったく止むとき、霊と肉とがたちまち分離するときである。
肺臓の呼吸と心臓の鼓動とは、人間の本体である精霊そのものを肉体につなぐ命脈であり、この二つの官能が破壊されるときは、精霊はたちまち己に帰り、独立して復活することができるのである。
精霊の躰殻である肉体は、精霊から分離されたゆえに次第に冷却し、ついに腐敗糜爛するに至るものである。
人間の本体である精霊は、肉体分離後にもしばらくはその体内に残り、心臓の鼓動がまったく止むのを待って、全部脱出する。この現象は人間の死因によって違ってくる。ある場合には心臓の鼓動が長く継続し、ある場合には長くない。いずれにしても、この鼓動がまったく止んだ時は、人間の本体である精霊は直ちに霊界に復活しえるのである。しかしこれは瑞の御霊の大神のなし給うところであって、人間自身が行うことのできるところではない。
心臓の鼓動がまったく休止するまで精霊が肉体から分離しない理由は、心臓は情動に相応しているからである。情動は愛に属し、愛は人間生命の本体である。人間はこの愛によっておのおの生命の熱がある。愛による精霊と肉体の和合が継続する間は、精霊の生命はなお肉体中にあるのである。
人の精霊は、肉体の脱離期すなわち最後の死期にあたって、その瞬間抱持した最後の想念を死後しばらくの間は保存するものであるが、時を経るにしたがって、元世に在った時に平素抱持していた諸々の想念のうちに復帰する。
古人のことわざに最後の一念は死後の生を引くと言っているのは、誤謬である。どうしても平素の愛の情動がこれを左右するのである。そこで人間は平素よりその身魂を清め、善を云い善のために善をおこない、智慧と証覚とを得ておかなければならないのである。
さて、治国別と竜公は、八衢の関所に進んでくる精霊と赤白の守衛との問答に、謹慎の態度で聞き入っていた。そこに心中した男女の精霊がやってきた。赤の守衛が二人を怒鳴りつけて呼び止めると、二人は路上にうずくまってしまった。
二人は別々に引き離されて取り調べを受ける。女は生前は芸者で、八衢の守衛を色仕掛けで買収しようとする。赤の守衛は口八丁で口説きたてる女に辟易し、また後で取り調べると言い渡して岩窟に放り込んだ。
男の方は、女芸者に入れあげて勤め先の店の金を横領していた。男は、大きなお金をごまかした方がかえって政府から見逃され、有力者となり社会の善人となるのだ、と反論した。そしてそれが冥途の法律と違うのなら、なぜ最初から現界に冥途の法律を発布しないのか、と怒鳴りたてる有様であった。
守衛は現界からやってくる精霊のありさまを嘆いた。そして大神様が厳の御霊、瑞の御霊の神柱を現界に送って改造に着手されているから、四五年もすれば効果が現れて今やってきたような人間の数が減るだろうと語り合っている。
治国別と竜公はこの様子を見て、自分たちが現界に帰ったらしっかりと舎身的活動をしなければならないと肝に銘じている。
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03 00 - 本文
03 12 〔1245〕
高天原の各団体に居住する霊国天人および天国天人は愛を生命とし、一切を広く愛するがゆえに、肉体を離れて上ってきた精霊のためにあらゆる厚誼をつくし、懇篤な教訓を伝え、あるいは面白い歌をうたい舞曲を演じ、音楽を奏するなどして、一人でも多く高天原の団体に導き行こうとする。
これ以外に他に念慮は少しもなく、これが天人の最高最後の歓喜悦楽である。しかしながら精霊が肉体を持って現世にあったころ、善霊(正守護神)や天人(本守護神)の群れに入るべき生涯を送っていなかったならば、これらの精霊は天国的な善霊を離れ去ろうとする。
こうして精霊は、現世に在った時の生涯と一致する精霊と共に群居するまで、どこまでも転遷を休止することはない。自己生前の生涯に準的するものを発見すると、共に死後の生を送ろうとする。実に霊界の法則は不思議なものというべきである。
人間は善霊である本守護神または正守護神によって高天原の諸団体と和合氏、悪霊である副守護神によって地獄の団体と相応の理によって和合する。これらの精霊は高天原と地獄界の中間である中有界(精霊界)に籍を置いている。
副守護神は人間の記憶・想念の中にある悪しき事物の間に潜入し、正守護神は善き事物の間に侵入する。しかし人間の本体である精霊は、これらの精霊が人間の体の中に入り相共に居ることは少しも知らないのである。
彼ら精霊(本守護神や副守護神)は、その人間の記憶と想念を、自分自身の所有物と信じている。また彼らが人間を見ることはない。現実界は彼ら精霊の視覚の対象とはならないのである。大神は彼ら精霊が人間と共にいることに気付かないよう、すこぶる甚深に大御心を用い給いている。
なぜなら、もし副守護神がこのことを知るときには、人間を亡ぼそうと考えるからである。副守護神すなわち悪霊は、根底の国の諸々の悪と虚偽に和合しているゆえに、人間を亡ぼして地獄界に導き、自分の手柄にしようと希求しているからである。
副守護神が人間と相語らうことがなければ、自分が人間の体内にあることを知らないのだから、決して害を加えることはない。大神は、悪霊が思うところや語るところが自分自身の中にあると信じさせることで、人間と共にありながら危害を加えないように取り計らい給うたのである。
天国の団体に交通する精霊も人間に付き添っている。精霊のもっとも清きものを真霊または本守護神といい、やや劣ったものを正守護神という。
人間が生まれると直ちに悪の裡に陥らなければならないことになっている。当初の生涯は、まったくこれら精霊の手の裡にあると言ってもいいのである。
もし自分と相似た精霊が付き添って守らなくては、人間は肉体として生きることはできない。諸々の悪を離れて善に復ることもできない。人間の肉体が悪霊(副守護神)によって生命を保持し得ると同時に、善霊(正守護神、本守護神)によってこの悪を脱離することを得る。
人間はこの両者の徳によって平衡の状態を保持するがゆえに、意志の自由というものがある。意志の自由によって悪を去って善に就き、心に善を植え付けることができる。
一方には根底の国から流れてくる悪霊があり、一方には高天原から流れ来る善霊が活動しており、人間はこの中間に立ち、天国と地獄両方の圧力の間に挟まらなくては、決して意志の自由があるべきものではない。
人間に自由のないときは、生命のあることを得ない。ゆえに、善を持って他人に強いることはできない。人から強いられた善は、けっして内分の霊魂に留まるものではないからである。心の底にどうしても滲み込むことはできない。ただ自由自在に摂受した善のみは、人間の意志の上に深い根底を下ろして、さながら自分ののもであるかの様になるものである。
あらゆるものに対して自然的な事物から推考することしかできない現代では、神的・霊的な人格さえも自然的なものを考えてしまう弊害がある。
神が全宇宙を統御あそばす一個の人格ならば、世上の君王のように多数の官人を用いるだろう、などと誤った憶測をしてしまうのである。
このような人間に対して、高天原の霊界は現実世界のような空間的な延長はないのだ、と告げ諭しても、容易に会得することはできないだろう。
自然界、自然の光明を唯一の標準と定めて思惟する者にとっては、どうしても空間的な延長を考えずにはいられないということなのだ。
高天原の延長は、自然界の延長と違って限定がないために人心小智の測知するべきことではない。
人間の眼界は太陽、太陰、星辰のようなきわめて遠くにあるものも認めることができる。内分の視覚力である想念界の視覚力は、なおも遠方に達する。内辺の視力の至る極みは、なおさらに遠大であり得ることが知られる。
そうであれば、はたして何が神的視力の外にでることができようか。神的視力は現実に、一切の視力のいと深く内的にしてかつ高上である。
想念中にこのような延長の力があるゆえに、高天原の一切の事物はここに住む者のすべてに伝わるのである。
高天原を成就し遍満する主の神の神格より来るものもすべて、このようにして高天原に住むすべての者に伝わるのである。
治国別と竜公はしばらく関所の館に休息していた。そこへ東方から一個の火弾が落下し、たちまち麗しい天人の姿と変わった。いつの間にか二人は想念に引きずられて第三天国に昇っていた。
神人の姿をよく見れば、それは三五教の宣伝使・言依別命であった。治国別は驚きと喜びに打たれて静かに天の数歌を奏上し始めた。
言依別命は、かねてより治国別を天国巡覧に連れて行きたかったのだがその機会を得なかったと語った。そして、このたびはからずもバラモン教によって治国別の肉体が苦しめられて精霊が離脱したため、天国を調べてから現界に立ち返り、神様のために働くよう治国別に言い渡した。
竜公はまだ天国を巡覧するだけの善と信と智慧証覚が備わっていないのだが、大神様によって媒介天人に任ぜられたという言依別命の権限で、特別にお供を許された。そして天国で眼がくらみ息苦しくならないよう、黒い被面布を授けられた。
言依別命はまず第三天国から二人を案内し、丘の上に立って天人たちの部落を見ながら二人に説明を始めた。天人たちは愛の情動によって集まり住んでいるためにおのずと秩序ができ、またそれぞれ天職を楽しみ営々として神業を営んでいるという。
言依別命は、愛の善は吸引力が強く、また無限の生命を保有していると説明した。天人であろうと現界人であろうと地獄界の人間であろうと、それ相応の愛によって生命が保たれており、その愛なるものはすべて、厳の御霊、瑞の御霊の御神格から内分的に流れて来る、無始無終の生命であると説いた。
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03 13 〔1246〕
高天原の東と西の団体は、信愛の善徳に居る。東は分明に愛の善徳を感得し、西はおぼろげに感ずるものが住む。南と北の団体は、愛信の智慧証覚に居るものである。南は明白に、北はおぼろげに光れるものが住む。
高天原の天国にある愛は、神に対する愛である。これより来る真光は、智慧と正覚である。霊国にある愛は隣人に対する愛であり、仁である。仁愛から来る真光は智慧であり信である。
高天原には時間空間、春夏秋冬の区別はない。ただ天人各自の情態の変化があるのみである。現界の人は時間の概念を離れることができない。天人はみな情態の上から思惟する。
春と朝は第一情態における愛の善、証覚の境涯に対する想念である。夏と午時は第二情態における愛善および証覚の境涯に対する想念である。秋と夕べは第三情態の愛善および証覚の境涯、冬と夜は地獄に落ちた精霊の境涯に対する想念である。
言依別命は説明を続けた。いかなる状態にある人間でも、生まれ赤子の純粋無垢の心に帰りさえすれば、直ちに第一天国と相応し、神格の内流によって容易に天国に上り得ると説いた。
天国の太陽とは、厳の御霊の御神格が顕現したものであるという。また霊国では瑞の御霊の大神が月と現れ、天国ではまた太陽と現れ給うという。
神様の愛は現実界の太陽の熱烈なるに比較して一層強く、その神愛は下降するにしたがって熱烈の度を和らげて行き、第三天国のもっとも低いところでは大神の御光を拝することが遠く、現界の太陽を拝するように明瞭にわからないのだという。
第三天国の天人たちの前に、神がそのまま太陽となって現れると天人たちの眼がくらんでしまうので、大神様は一個の天人となって善、真、智慧証覚相応の団体へおくだりあそばし、親しく教えを垂れさせ給うという。
治国別と竜公は、言依別命の案内で二三丁ばかり丘を下って行った。言依別命は火光と化して天空に姿を没した。二人は暗夜に火を取られた心地ながら大地にひざまづき、言依別命に涙ながらに感謝をささげた。
治国別は、言依別命の案内に頼る心を持った自分たちの想念の過ちによって、神様が遠ざかったのだと竜公のみならず自らを諭し、合掌して感涙にむせびながら主神に祈りを凝らした。
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03 14 〔1247〕
治国別と竜公は一心不乱に油断と慢心の罪を謝し、一時も早くわが精霊に神格が充たされることを祈願していた。そこへ臭気紛々たる病人が膿汁をしたたらせながら二人の前にあらわれた。病人は岩石に躓いて苦悶し始めた。
竜公は、天国にこのような汚れた者がいるはずはないと治国別に訴えて、この場を離れようとする。治国別は、目の前に苦しんでいる人を救うことこそ、自愛を捨てて善と愛の光明にひたることであり、地獄も天国となすと諭した。
打ち倒れた病人は二人を認めると、宣伝使なら自分の膿を吸って苦しみを和らげろと命令した。治国別は言われるがままに病人を介抱し、いやがる竜公を諭した。
病人はますます横柄になり、治国別に膿を吸い出すように命令した。竜公はこの様を見て憤慨し病人をなぐった。すると病人はたちまち容色端麗な女神と変わった。
女神は治国別の神の愛を賞賛し、自ら天教山の木花姫と名乗った。そして先ほど言依別命として二人の前に現れたのは、国治立尊であることを明かした。木花姫は竜公の師匠を思う義を称しつつも、愛を徹底させるようにと諭した。
木花姫は最下層の天国から中間の天国団体へ二人を案内しようと、二人ともに被面布を授けた。二人は木花姫の後を慕い、足に任せて東にさして一瀉千里の勢いで進んで行った。
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03 15 〔1248〕
最奥一の天国にある天人の想念と情動と言語とは、中間天国の天人たちには知覚できない。最奥一天国人はすべてにおいて、中天界より勝れて超絶しているからである。しかし大神の心にかなったときは、上天高くに火焔のような光彩として見ることができる。
天国を下に下るにしたがって、円満の度はいっそう低くなる。また各天国は、神から来る内流によって、また別の天国のために存在するのである。
高天原の形式がどのような情態に活動し、どのように流通するかは、天国の天人といえども会得することは難しい。しかし神の智慧に富んだ人が、人体の種々の事物の形態を検査して推して考えるときは、その大要を悟り得ることができる。
人間の各部を連結する神経線維、心臓肺臓胃腸、各臓腑、肢体筋肉が幽玄微妙に活動するさま、また想念によって働く知性と意性が不可思議に働くさまは、天界の形式と相応している。しかし自然界の科学によっては高天原の原則を十分に探求することはできない。
高天原に上中下があるように、天人の生涯にもまた三つの度がある。しかして下層の天界から上層の天界へは神格の内流はない。神の順序に逆らうからである。神は順序と讃え奉ってもよいものである。ゆえに、上天界から下天界に向かって内流がある。
高天原の天人は、その証覚にさまざまの程度があり、ゆえに統治の制度が布かれている。諸天人はどうしても順序を守らねばならぬ。
高天原の統治制度は正道という。正道は大神のみに属し、諸天人を導く。天人はこれを知覚し心中に記憶し感得することができる。天人は正道にしたがって大神の導き給うままに生息することをもって歓喜悦楽とする。
霊国の統治制度は公義という。霊国の諸天人は霊善にある。霊善は隣人に対する仁の徳である。各所属団体ごとに、証覚のある者が統治者となって律法を制定し事物を統制している。律法に疑問があれば、大神ご自身が下られて明白な解釈を与え給う。
天国霊国の各団体の統治者は決して尊大ぶることはなく謙譲の徳を充たし、その団体の福利と隣人のことを第一に置いて自己の福利を最後におく。統治者は非常な名誉と光栄を有しているが、それはまったく大神の御稜威であることを知っているから自然に徳がそなわるのである。
本文
03 16 〔1249〕
木花姫の化身に案内されて第二天国にやってきた治国別と竜公は、目はくらみ頭は痛み、胸はとどろき手から力が抜けてふるえだした。二人は木花姫に助けを求めつつ、第二天国の入り口で倒れてしまった。木花姫は巨大な光と化して天の一方に姿を隠させ給うた。
治国別は自愛の欲によって我が身の苦しさについ木花姫に救助を求める心を起こしてしまったことを悔い、死人のように青ざめながら大神に祈った。治国別はこのような境遇にあっても神に従い神に頼り、神の神格を信じて微塵も不平怨恨の念を持たなかった。
治国別の祈りの声も細り、絶体絶命のときに天上から金色の衣をまとった神人が下り、霊丹という天国の薬を取り出して二人の口に含ませた。二人はたちまち蘇生した。二人が神人の顔をよく見れば、木花姫命であった。
木花姫命は、治国別が肝心要の宣伝使としての如意宝珠を途中で落としたために息が絶えそうになったのを見て、月の大神様の御殿から霊丹をいただいてきたのだと語った。お礼を述べる治国別に対し、自分は命の親の月の大神様のお取次ぎをさせていただいただけだと諭した。
治国別は、途中で落とした如意宝珠とは何かという木花姫命の問いに答えあぐねていた。竜公は不意に手を打って、下層天国から中間天国に上る途中、善言美詞たる天津祝詞、神言を奏上し忘れていたことを指摘した。
治国別は竜公の指摘を謝した。木花姫命は祝詞を上げながら第二天国を行くようにと諭し、二人に別れを告げた。二人が命に感謝を述べ首を垂れる刹那に雲上高く消えさせ給うた。
本文
03 17 〔1250〕
治国別と竜公は祝詞づくしの宣伝歌を歌いながら、ある天国団体の一画に着いた。数多の天人は男女の区別なく道の両脇に列を正して、愛と善のこもった言霊を張り上げて二人を歓迎するごとくであった。
天人の衣類は、その智慧と真と相応する。一切の智慧は神真から来るからである。ゆえに天人の衣類は神真の程度の如何によると言えるかもしれない。火焔のように輝く色は愛と善と相応している。光明は善から来る真に相応している。
さまざまな色の衣服をつけた諸々の天人は、治国別と竜公がこの団体を訪ねることを大神の宣示によって知り、歓迎の準備を整えていた。天人は二人の側近く進み来て天国の言葉で歓迎の意を表示していたが、二人はなぜか口舌が硬直して言葉を発することができなかった。
治国別は無言で表情にて感謝の意を表していたが、竜公は『アーアー』という叫び声で喜びを表した。『ア』は喜びを表白する意味であるから、竜公の一言は天人から称揚の的となった。
人間の想念は記憶に付着して、その言語の根源となる。もし天人が人間に向かい来たり両者が和合するに至れば、その人のすべての記憶は天人の前に現出する。大神の特別の御恵により、天人と人間の和合があらしめられれば、天界を人間の内に投入したごとくになる。
治国別は自分がまだ肉体のある精霊であることを天人たちに告げようとしたが、なにゆえか一言も発することができなかった。第二天国の天人に相応すべき愛善と信真と智慧と証覚とが備わっていなかったからである。
治国別たちは天人の諸団体に歓迎されながら、言葉が話せないまま旅行を続けてあまり大きな恥もかかず、首尾よく巡覧して天人に好印象を与えて去ることができたのは不思議であった。
治国別は木花姫命のお導きによって智慧と証覚を与えられ、第二天国の各団体を巡歴し、進んで最高第一天国および霊国に進む物語は、次節より口述する。
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03 18 〔1251〕
高天原の霊国および天国の天人は、人間が数時間を費やす雄弁な言語よりも、わずか二三分で簡単明瞭にその意志を通じることができる。天人の言語は優美と平和と愛善と信真に充ちているため、いかなる悪魔もその言葉に抵抗することはできない。
天国の言葉は善言美詞に充たされている。何事も善意に解し見直し聞き直し宣り直しという神律が行われている。
日の国の天国天人の言語はウとオの大父音多く、月の国の霊国天人の言語はエとイの大父音に富んでいる。天人はみな一様の言語を有し、現界人のように言語の違いや訛りはない。また面貌によってあらわす言語や、概念を見るように成した言葉など、さまざまな形容詞が使われている。
治国別と竜公はこの団体の統制者、珍彦・珍姫夫婦に導かれ、種々の花卉などで囲まれた麗しい邸宅に招待された。珍彦は鋭敏な証覚によって、治国別が肉体がありながら修業のために天国を訪れたことを悟ることができた。
珍彦は、治国別の知る言語を用いて談話をなした。珍彦は、今日は大神様の祭典日だから、その場で治国別が現界からの修行者であることを発表しようと伝えた。
竜公は、団体中は子供からせいぜい三十才くらいまでの者しか見当たらないわけを珍彦に尋ねた。珍彦は、精霊は不老不死であり、心は人間では二十才かから三十才くらいで成就するので、天国の住民はそのとおりの姿をしているのだと説明した。
天国の生活について珍彦は、天人各自、農工商に励み、互いに喜び勇んで事業に汗をかいて従事しており、上下一致、億兆一心にて大事にも小事にもあたるので、何事も完全無欠に成就すると説明した。
感心する治国別に珍彦は、すでに天国の団体に来った以上は、互いに心と知性が通じて融合統一しており、だからこそ相対座して話をすることができていると語った。だからこの心をいつまでも忘れなければ、地上へ下っても依然として天国の住民であると諭した。
三人が歓談に笑い興じている間に、珍彦の妻・珍姫が現れて挨拶をなした。竜公は、珍彦と珍彦の容貌がそっくりなことを尋ねた。珍彦は、天国の夫婦は愛と真の和合によって成立するから同心同体、相応の理によってこのようになるのだ、と説明した。
また竜公の諧謔については、滑稽として聴けばたとえ悪言暴語であっても、笑いによってたちまち善言美詞となるので心配することはないと諭した。
そのうちに一人の男が祭典の準備ができたと珍彦夫婦を呼びに来た。治国別と竜公も共に参加することになった。
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03 19 〔1252〕
祭典を行うことは、天国団体の天人の重要な務めの一つとなっている。天国の天人は愛の善に居るため、大神を愛し同僚を愛し、天地惟神の法則にしたがって宇宙の創造主たる神を厳粛に祀り、種々の供物を献じて神の愛に浴することを唯一の歓喜、神業としている。しかし天国人は決してエンゼルになったり宣伝使にはならない。それは霊国天人の任務である。
祭典が済むと、霊国からエンゼルまたは宣伝使が出張し来たって愛善を説き、真信を諭し、天人の智慧と証覚をますます円満たらしめるよう務める。
治国別と竜公は、珍彦に伴われて神の家と称する、天人が祭典を行い霊国宣伝使が説教を行う木造の殿堂に導かれた。この宮は想念によって建てられているから、決して腐朽したり古くなったりすることはない。
天国の祭典は実に荘厳といおうか、優美といおうか、華麗といおうか、たとえ方のない情態である。団体中で証覚のすぐれたものが祭典に関する役目を務める。珍彦は団体長として斎主を務めている。
すべて天国は清潔主義、統一主義、進取主義、楽観主義であるから、何とも言えぬ良い気分に充たされるものである。祭典によって神人は和合の極度に達し、歓喜悦楽に酔うのである。
天国の祭典は神に報恩謝徳の道を尽くし、またその団体の円満を祈り、天人各自の歓喜悦楽に酔うためにする。したがって現界の祭典のごとく四角張らず、小笠原流式もなく、円滑に自由自在に愛善より来る想念のままに情動するから、何ともいえない完全な祭典が行われる。
しかし現界のごとく天津祝詞や神言を奏上して神慮を慰め、天人各自の心を喜ばせて一切の罪汚れを払しょくする神業である。天国においても憂いや悲しみや驚きに遭遇することは絶無ではないので、天人は日を定めて荘厳な祭典式を行い、福利を得ようと祈るのである。
朝は日の天国の愛善に相応し、夕べは月の霊国の真信に相応する。ゆえに天国の祭典は午前中に行われ、午後に至って、霊国から出張した宣伝使が説教を始めるのが例となっている。
直会の宴も無事に終了し午後の情態になったとき、霊国の宣伝使が嚠喨たる音楽に送られて、二人の侍者を伴い神の家に進んできた。霊国の宣伝使が珍彦の案内で演壇上に就くと、諸天人は半月形に席を取り、その教示を嬉しそうに聴聞している。
治国別と竜公はまだ天国の言葉を解することができないので、特別席に黙然として耳を傾け、宣伝使の抑揚や身振りから何事を語りたるかをおぼろげに窺い知るのみであった。一時ばかり経ったと思うころ、宣伝使は説教の終結を告げ、各天人は拍手讃嘆しながら各自の住所に帰って行った。
珍彦は霊国宣伝使一行を自宅に招いた。治国別と竜公も共に珍彦館に帰りゆく。珍彦と珍姫夫婦は珍しい果物を並べ葡萄酒をついで宣伝使一行を歓待した。治国別と竜公は宣伝使の光明に眼がくらみ、あわてて被面布をかぶった。
そして宣伝使の顔をよく見れば、野中の森で別れた五三公であった。治国別は霊国宣伝使が五三公の顔であることに驚いて逡巡していたが、竜公は構わず、五三公にそっくりだと治国別に話しかけ、霊国宣伝使に五三公として話しかけた。
宣伝使は言霊別命と名乗り、月の大神の命で地上に降って五三公の精霊を充たし、神国成就のために活動しているのだと明かした。そして地上天国を建設するために化相して活動しているため、地上では徒弟の五三公として接するようにと願い出た。
治国別は驚いていたが、言霊別命は竜公と親しく語りだし、ぱっと上衣を脱いだ。たちまち現界の五三公と風体まで変わらないようになり、言葉もなれなれしくなってきた。そして治国別と竜公に天国の案内しようと申し出た。
治国別一行は、珍彦と珍姫に厚く礼を述べ、五三公の案内で宣伝歌を歌いながら南方指して進んで行った。
本文
03 20 〔1253〕
高天原の天界は、天国と霊国に区分されている。日の国・天国は、人身に例えれば心臓および心臓に属している一切のものと相応している。月の国・霊国は、肺臓および肺臓に属している一切の諸機関と相応している。
心臓と肺臓は人間における二つの国土である。霊界の二つの国土も一は意志の国、一は智性の国である。意志は善に対する情動より、智性は真に対する情動によって、人身内分の二国土を統治している。
心臓は天国であり意志の国、肺臓は霊国であり智性の国に相応している。天国と霊国の奸計は、人における心臓と肺臓の関係に相応している。今ここに、高天原の全体を巨人にたとえて説明する。
天界の頭部に居るものは愛、平和、無垢、証覚、智慧の中に住し、歓喜と幸福に住する。天界いたるところ、この頭部における善徳に比すべきものはない。人の頭部は高天原の最高天国・霊国に比すべきものである。
胸部は仁と信との善徳中に住して胸部に流れ入り、これと相応する。腰部および生殖器官に属するものは夫婦の愛に住し、第二天国の情態である。
脚部にあるものは下層天国の徳、自然的および霊的善徳の中に住している。腕と手にあるものは、善徳の中より出で来る真理の力に住している。
目にあるものは智に住し、耳にあるものは注意と従順に住し、鼻孔に属するものは知覚に住している。また口と舌に属するものは言語の中に住し、内腎は研究調査すべき真理、肝臓、膵臓、脾臓に属するものは、善と真といろいろに洗練するに長じている。
治国別一行は、人体における心臓部に相当する第二天国のもっとも中枢部たるところを巡覧している。各天国内も上中下三段に区画され、各段の天国は個々の団体をもって構成されている。愛善の徳と智慧証覚の度合いによって幾百ともなく分立している。霊国も同様である。
高天原においては惟神的な天然律にしたがって勝者が劣者を導くので、皆その分度に応じて安んじ、不安・怨恨・不満の起こることなく平和の生涯を送り居るのである。
治国別ら三人は美しい丘陵の上に着いた。天日晃々として輝きわたり、被面布を通しても霊光が厳しく放射し、治国別は目がくらみ、竜公は身体の各部に苦悶を兆してきた。五三公は依然として被面布もかぶらずにここまで進んできた。
五三公は二人の様子を見て、ここで景色を眺めながら休息することにした。治国別はもう一度霊丹が欲しいものだというが、五三公は、大神の直接内流である愛の熱をいただけばもはや霊丹は必要ないのでは、と指摘した。
そして五三公や竜公との会話から、惟神霊幸倍坐世という御神文の方が霊丹よりも効能が顕著であることを悟らしめた。大神はこのように第三者の口を借りて、治国別に諸々の真理を諭させたのである。
天国の太陽について尋ねる竜公に対し、五三公は、天国では大神様が日輪となって現れ、霊国では月となって現れるのだと教えた。そして高天原にては、大神様が日輪様として現れる東をもって方位を定めると続けた。
一切のものの生命の源泉は日輪様たる大神様から来るゆえに、天界では厳の御魂、瑞の御魂をお東様と呼んでいると説明した。治国別は五三公、竜公の口を通して間接内流にてお示しをいただいたご高恩を感謝し、厳の御霊・瑞の御魂に祈りを捧げた。
本文
03 21 〔1254〕
その一
現代人は霊界一切の事物と人間一切の事物との間に一種の相応があることを知らず、また相応がどのようなものであるかを知る者がない。我と世間に執着して天界から遠ざかってしまっているからである。
古の宣伝使や信者は、相応に関する知識をもってもっとも重要とみなし、これによって智慧と証覚を得たのである。相応の理を知得して天人の知識を得、思索することなお天人のごとく、またしばしば主神とも相見るを得てその教えを直接に受けた者もたくさんある。
自然界は太陽の下にあって熱と光を受ける一切の事物を言う。自然界に属するものはすべて、太陽によって存在を継続するのである。一方、霊界に属するものは天界にある。
人間は一小天界にして、また一小世界である。至大なるものを模しているゆえに、人間の中に自然界もあり霊界もあるのである。心性に属して智と意とに関する内分は霊界を作り、肉体に属して感覚と動作に関する外分は、自然界を成す。
自然界に属する肉体や感覚や動作が、その存在の源泉を霊界に有する時、すなわちその心性、智力、意力から来るときは、これを相応者という。三五教の宣伝使にして以上の相応の真理を知悉しない者はただの一人も無かった。実に主の神の神格を十分に認識しえたからである。
この物語を心にひそめて神の大御心のあるところを会得し、相応の真理を覚り、現界においては万民を善道に救い、死後は天界に上って天人の班に伍して神業に参加されることを希望するものである。
その二
主神の国土は、目的の国土である。目的とは「用」そのものであるため、主神の国土を称して用の国土ということもできる。主神は神格の始めに宇宙を創造し形成し給うや、はじめは天界においてなし給い、次に世界において至るところ、動作の上・結果の上に用を発揮しようとし給うた。
自然界の創造と形成は、天界と同様、種々の度を経て次第をおって、その終局点にまで至らなければ已まない。そのため、自然界事物と霊界事物、世間と天界の相応は、用によって成就する。
この用を中に収めるのは、形体である。和合の媒介によって、この形体が、天界と現界において相応をなすのである。自然界に在っては、用のために、用によって造られたものはみな「相応者」である。
人間にあっては、神の法則にしたがって生活する、主神に対して愛があり、隣人に対して仁ある限り、その行動は「用の形態」に現れたものなのである。
人間は、自然界を霊界に和合せしむるための方便である。すなわち、和合の媒介者となることが、その用なのである。けだし、人間には自然界と霊界と二つの者が備わっているものである。
人間は霊的なることにおいて和合の媒介者となるが、もし自然的であるだけならば、媒介者となることはできない。そうはいっても神格の内流は人間の媒介を経なくても、絶えず世間に流れ入り、人間内の世間的事物にも流れてはいる。
以上のごとく、神の法則にしたがう者はことごとく、自然界にあって天界に相応している。これと反するものはみな、地獄と相応している。天界に相応するものはみな善と真とに関係があるが、地獄と相応するものはみな、偽りと罪悪に交渉している。
霊界が諸々の相応によって自然界と和合しているがゆえに、人は諸々の相応によって天界と交通することができる。人間でありがなら諸相応の知識に住しているときは、その霊的、内的人格において天人と和合しているのである。
地上においても最太古の人間は天的人間であって、相応によって思索していた。ただ自然的な思索は方便にすぎなかったのである。太古の人間は天人とたがいに相交わり相語り、天界と世間の和合は、彼らを通して成就していた。これが黄金時代である。
次に白銀時代になると、もはや人間は相応そのものから思索するのではなく、相応についての知識によって思索していた。なお天と人との和合はあったが、以前のように親密ではなかった。
次に赤銅時代になると、その思索は相応の知識によらなかった。彼らの善徳は自然的のもので、以前のように霊的ではなくなっていた。この時代以後は人間は次第に外的となり、肉体的となり終え、相応の知識も亡びて霊界に関する多くの事項も会得しがたくなってしまった。
さらに下って黒鉄時代となった。黒鉄は冷酷な真を表す。善はここに居らない時代である。現代は黒鉄時代を過ぎて泥土世界と堕落し、善も真もその影を没した暗黒無明の地獄である。
国祖の神はこのような惨憺たる世界を松の代、三五の代、天国の代に復活せしめようとして不断的に愛善と真信のために御活動あそばしつつある。
これを思えば我々は安閑として現代を看過することはできない。一日も早く神の教えに眼をさまし、善のために善を励み、真のために真を照らして空前絶後の神業に参加されることを希望する次第である。
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