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霊界物語あらすじ

説明を読む
ここに掲載している霊界物語のあらすじは、東京の望月氏が作成したものです。
まだ作成されていない巻もあります(55~66巻のあたり)
第38巻 舎身活躍 丑の巻 を表示しています。
篇題 章題 〔通し章〕 あらすじ 本文
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広大無辺の大宇宙の元津御祖であらせられる大国常立大神の別の御魂として、瑞穂国に天降り海原を修理固成したもうた国常立大神の厳の御命を畏みて、教祖は神の真道を開かれた。
その筆に成る教えの光の幸に、荒ぶ神や醜御霊の心を直しなごめ、醜の教えに惑わされて体主霊従の行動を続けてきた曲の罪を赦し給え。
この先は、この物語を読み習い、体主霊従が天地の神の御心と違っていることを知り、神の経綸を悟りますよう救わせ給え。
各々が神代のままの大稜威を発揮し、それぞれの功徳のまにまにうづない給いつつ、互いに交わり教え合って、神の大道を知らずに犯した過ちの数々の罪穢れを祓い退け、神の子と生まれ出た人々を導き給え。
この世を造りし神直日、心も広き大直日に見直し聞き直し、なだめ赦して身魂を清め救わせ給え。神の御典はもちろん、大本教の御神諭はもれなく残すことなく、過たず、真語を真教と悟らせつ、教司の宣り伝える言葉の疵も次々に改め直し、正道を歩ませ給え。
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本巻は子の巻に続き、瑞月王仁がこのこの道に入信した経路の大略を口述したものであるが、実際の百分の一をも尽くしてはいません。
子の巻にならって、巻頭に霊界的活動の経緯を表明しておきました。寅の巻から、再び神素盞嗚尊が八岐大蛇を退治し給うた神界の物語を口述することにいたします。まずはインド方面の神々の御活動から口述する考えです。
舎身活躍の子の巻、丑の巻は断片的物語で、年次を追って述べてあるわけではありませんから、そのおつもりで読んでいただきたいものです。
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01 01 〔1038〕
『天帝一物を創造す。悉く力徳による。故に善悪相混じ美醜互に相交はる』とは、道の大原の最初に示された聖句である。
全知全能の神が創造した世界になにゆえ、美醜善悪の違いがあるのかについては、いろいろと理屈をこねる人もある。しかしながらこれは全く力徳の塩梅によるものと断定を下してあるのは、万古不易の真理なのである。
力徳は一朝一夕に説き明かすことはできないが、つづめて言えば、動、静、解、凝、引、弛、合、分の八力の活動がどうなるかによって、善悪・美醜・大小・強弱が分かれるのである。
大本では、人は万物の霊長であるのみならず、『神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の司宰者なり』と断定しているのである。これも出口教祖の二十七年間の筆先の大精神を通観して得たところの断案である。
天地経綸の司宰者である人間にも、また善悪・美醜・大小・強弱の区別があって、中には経綸の妨害をなす人間もたくさんに出来ているのである。この大原因は天賦の力徳の過不及による結果であり、いわゆる身魂の因縁性来によるものである。
しかし人は神様に次いで尊きものであるから、世界を善に進め美に開くべき天職を、天賦的に持っているものである。人間は小なる神、神の生き宮としてこの世に生れ出たのである。
そうである以上、終生神の御旨を奉戴して天地の御用を助け奉ることが、人として生まれ出た本文を尽くすことになるのである。
人間は裸で生まれてきたから裸で死ねばよいという捨て鉢根性では、人生天賦の職責は遂げられない。それどころか、神界より選ばれて生まれさせていただいた大神の御聖旨に背く罪人となってしまうのである。
天地神明の大業に奉仕し、政治を進め、産業を拓き、真の宗教を宣伝し、道義心の発達を助けて世界の醜悪を駆追し、真善美の天地に進めて行かねばならない。
皇祖天照大神様の建国の御主旨は政教慣造の四大主義の実行である。政は万世一系、教は天授の真理、慣は天人道の常、造は適宜の事務。この四大主義を実践するのが人生の本分である。ただ天下公共のために自分としての転職を尽くし得ることが肝心である。
役員や信者の中には、出口教祖のお筆先によって、私に対して空想を描いている人が多い。またなにほど筆先の精神を縦横無尽に説いても、それは教祖の筆先に出ていないと言って十分に感得させることができないことは、実に遺憾である。
自分の肉体に対して好意を表してくれてはいるが、肝心要の真実の精神を汲み取ってくれるものが少ないのは、自分にとって最大の苦痛である。
役員や信者の迷信を利用して猫をかぶっていたなら、物質的方面のことはどんなことでもできたであろう。しかしながら、自分の天授の良心が、どうしてもそんなことは許さない。神の道は方便や手段では行かない。
至誠至直の神に仕える身分としては、神の大道より他の道を歩むことはできない。今日の場合にはいかにしても社会一般の誤解を正し、大本を正しく理解させることが必要であると感じたから、神様に一身をささげて口を提供し、物語を発表することとなったのである。
混濁せる社会に対して一身をささげて五六七の御代に奉仕しようという誠の人は、一日も早くこの物語の精神に目をさまし、天下万民のために誠を尽くしていただきたいものである。
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01 02 〔1039〕
丹波何鹿郡東八田村字淤与岐という小さな村がある。大本に因縁深い木花咲耶姫命が祀られている弥仙山のふもとである。ここに吉崎兼吉という不思議な人があって、自ら九十九仙人と称している。
彼は七歳のときに白髪異様の老人に山中で出会って様々な神秘を伝えられてから、筆先を書き表して、天のお宮の一の馬場の大神様の命令を受けて、天地の神々に大神の神勅を宣伝するのをもって天職となしていた。
家族や近隣からは発狂者とみなされていたが屈せず、二十五六歳のころから郷里を出て口上林村の山奥に入って、木こりをしながら板に神勅を書き表して暮らしていた。
その筆先の大要とは、「いよいよ天運循環し、われわれ大自在天派の世界は済んでしまった。これからは綾部の大本へ世を流して、神界の権利を艮の金神に手渡ししなければならない」というものであった。また出口教祖の古き神代からの因縁なども、あらまし書き表してある。
上谷の幽斎修行場で、この九十九仙人の精霊が四方春蔵に神懸り、足立正信、四方春蔵と喜楽の三人に神界のことを引き継がなければならないから、至急三人来てくれと依頼文をしたためた。
しかし足立と春蔵は、喜楽を出し抜いて自分たちだけが神界の秘術に預かろうと、先に出立してしまった。教祖に相談して、喜楽は二人を追いかけて行くことになった。
途中、山番の小屋で足立と春蔵が山番の爺さんと金銭のことでもめているのに追いついた。喜楽はそこに割って入り、山番に山道の修繕費用を渡した。これは、九十九仙人の精霊が山番の爺さんに懸って、三人の心を試していたということが後でわかったのである。
足立と春蔵は、喜楽に追いつかれて面食らい、捨て台詞を残して小屋を出ると、さっさと山路を登って行ってしまった。しかし山番の老人は、喜楽に九十九仙人の小屋への近道を教えてくれたので、五六丁も登ると仙人の小屋に着いた。
仙人は喜楽を歓暮迎し、神界の秘事を一夜間の間に諄々と説き諭してくれた。それは高熊山の修行で神界から見せられていたことと一致していたので、自分の信念はいよいよ強くなってきた。
九十九仙人は、足立と春蔵は大変な野心を起こしたために、神様から足止めをくっているのだと語った。果たして二人は濃霧のために方向を誤り、谷に転落してけがをするなどほうほうの体で山番の老人の小屋に戻って怒鳴りつけられていた。
二人は翌日の十一時ごろ、山番の老人の案内でようやく仙人の小屋に現れた。仙人は足立に対して、面部に殺気が現れているから早く惟神の道に立ち返るようにと忠告した。また春蔵に対しては、盤古の霊が守護しているから、大望を捨て、ただちに良心に立ち返って神界に仕えるように、と忠告した。
仙人は、時節が到来して自分の役目は今日で終わったので、明日からは人界に下って人場の勤めにしたがって余生を送ることにする、再び訪ねて来てももう話すことは何もない、と言って山奥に姿を没してしまった。
三人は帰途に就いたが、四方春蔵は盤古の悪霊に憑依され、喜楽を排斥しようと多くの役員信者を籠絡して計画を立てていたが、一年後にたいへんな神罰をこうむって悶死するに至った。慢心と取違は、実に慎むべきである。
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01 03 〔1040〕
上谷の修行場で二十有余人の修行者の審神者と奉仕していたところ、郷里から老母危篤の報が届いた。見舞いには行きたいが、自分が離れると邪神が修行場をかき乱すに違いない途方にれていた。
神界に伺ってみたところ、四五日の間に帰ってくればたいした邪魔はないであろう、とのことであった。また出口教祖からも、祖母の病気は生命には別状ないから、一心に鎮魂すれば八九分は平癒する、とのお示しがあった。
そこで四方藤太郎に修行場を頼んで、穴太に行くことになった。四方氏には、喜楽が不在中に綾部から教祖様が迎えに来られても、一人も修行者をやってはならない、特に四方春蔵、塩見せい子、黒田きよ子は気をつけよ、と念を押した。
しかし二三日後に教祖様から神の御命令だからと右三名を綾部に迎えに来た。四方氏は教祖の命だからと抗しきれず、三人を連れて帰られてしまった。三人は教祖のお迎えだからと慢心し、邪神が急激に襲来して金明会の広間は大騒ぎになってしまった。
喜楽が実家に戻ると、祖母は病床で寝ていた。母は祖母に気遣って、喜楽が帰ってきたことを知らせずに祖母を寝かしておいた。すると祖母がうなされ始めたので、母と介抱した。
祖母は目を覚ますと母と喜楽に向かって、夢の中でご先祖さまから、喜三郎は神様のお使いとして世に尽くす使命を持っているのだから、家に結び付けてはいけない、ときつい戒めを受けたことを語った。
喜楽は祖母の言葉に涙し、すぐに家を出立しようとした。しかし母は、親戚の次郎松やお政さんを引き連れて来て、二三日逗留するようにと引き留めをした。喜楽は次郎松とお政さんに家業を継ぐように責め立てられて閉口した。
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01 04 〔1041〕
喜楽は、神様の御用でどうしても家を空けなければならないと説明したが、二人が聞く耳を持たずに厳しく責め立てる。母もそれに力を得て、実家に居るようにと頼み込む。
しかしどうしたわけか、耳の遠い祖母にもその談判が聞こえたと見えて、老人の頼みだからと、喜楽を綾部に出してくれるよう、母たちに口を出してくれた。
また、そこへ野良仕事から帰ってきた弟の幸吉も、喜楽のために弁護してくれたので、その場は収めることができた。
翌朝も綾部行きを引き留められ、三日間穴太に逗留することになってしまった。ようやく、弟の幸吉を目付に連れて行くことで、綾部行きを許可してもらうことになった。幸吉も元から神様の道には熱心で、幽斎修行もしていたから、喜んで綾部についてくることになった。
出立するときに次郎松とお政さんがやってきて、またもや難癖をつけてきたが、幸吉が二人前働くと請け負ってくれて、ようやくその場を逃れて弟と二人、綾部に出立することができた。
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01 05 〔1042〕
喜楽は弟の幸吉と道々、神様の話にふけりながら北へと進んで行った。修行場に到着すると、心配していた四方春蔵ら三人の姿が見えない。
聞けば、教祖様が直々に使いをよこして連れて行ったという。四方平蔵氏は、いくら上田先生の言いつけでも、教祖様のお言葉に逆らうことはできないと抗弁した。
四方氏はあくまで教祖様の言葉を神様の御用だと信じ、喜楽が綾部に三人を連れ戻しに行くつもりだということを急告した。綾部では、自分が上谷の修行場に帰ってきたと聞いた福島寅之助と四方春蔵らは、奇妙な神がかりを始めたという。
自分はしかたなく、翌日も修行者の鎮魂をしていた。すると午前十時ごろに綾部から四方祐助爺さんがやってきて、福島寅之助らが近所の家の大黒柱を掘り返したりして警察が来る騒ぎになっているという。
二三日立つと足立正信氏らがやってきて、教祖様が警察を怒鳴りつけたが、何のお咎めもないので、それが神様の御威徳によるものだと喜んでにこにこしている。
また、教祖様の長女・お米さんが九年ほど気狂いになっていたが、先日大広間にやってきたとき、教祖様がお米の夫は大江山の酒呑童子の御魂、お米は教祖様の娘ながらこの世を乱した大蛇の御魂だと宣言たという。
そして、これまで見せしめのために罰として気狂いとしていたが、改心したら赦してやろう、と言うと、お米さんはその場に倒れて昏倒してしまった。一時間ほど経つとお米さんが息を吹き返したが、その言行は普通の人間と同じようになっていたので、信者一同神様の神力に感嘆した、と熱心に語るのであった。
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01 06 〔1043〕
そして、教祖様の言として、上田は結構な御魂を邪神界の神だと言って霊縛をかけたり神界の邪魔ばかりするので、綾部に帰れないようにするのだとおっしゃった。すると大雨で和知川の水があふれ、橋が流されてしまったのも、まったくご神徳のなせる業だと、懇々と説き聞かせ、自分に忠告するのであった。
自分は相当教育もある人たちが、こんなことを信じてわざわざ自分に言って聞かせるために綾部からやってきたことに呆れていた。
足立氏らと入れ違いに、出口澄子がやってきて、福島寅之助や四方春蔵らの神がかりが無茶苦茶に荒れ狂って上田先生の悪口を言い、信者たちがそれを信じ切ってしまっている、と注進に来た。教祖様は何事も神様に任すがよいと言って静観しているが、自分に早く綾部に帰ってもらい、一同の目を覚まして欲しいという。
また祐助爺さんがやってきて、綾部は福島らの神がかり騒ぎで町中の人が野次馬に集まり、しまいには野次馬の中で喧嘩が始まり、車引きの人足がご神前に土足のまま暴れまわって見物人がますます面白がり、困り果てていると報告した。
祐助爺さんは、また信者たちが教祖様の財産を食い物にして、日清戦争に出征した教祖様の息子・清吉さんの恩給もすっかり食いつぶし、それでいてお賽銭も入れず会計もせずに、神がかりだの霊眼だのにかまけていると嘆いた。
喜楽は半紙に爺さんの苦労を慰める狂歌を書いて渡すと、爺さんはありがたく押し頂いて懐に入れて帰った。二三日後、また祐助爺さんがやってきて、大切そうに牛人の金神からの筆先だとうやうやしく差し出す。
喜楽は、爺さんの眼を覚ますために、目の前で筆先を引き破った。爺さんは驚いたが、喜楽は爺さんに、金神からもらった扇子を破ってみろ、と進めた。爺さんは扇子を引き破ったが、罰が当たる気配もないので、また狂乱した村上房之助の神がかりに騙された、と怒った。
喜楽は祐助爺さんと一緒に綾部に帰った。大広間は信者があふれ、外には見物人がごった返してちょっとした騒ぎになっている。村上房之助に何者かが憑依して、信者におかしな命令をなしてたぶらかしていた。
神がかりの村上は自分を見るなり、扇子に何か書いたものをもったいぶって差し出したので、喜楽は一同の目を覚ますちょうとよい機会だと、扇子で村上の顔をたたいた。
奥からは四方春蔵ら三人が、喜楽に神罰を当てろと細い声で叫んでいる。
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01 07 〔1044〕
このころの大本初期の神がかりは実に乱雑極まるものであった。その上邪神のたくらみで、審神者もしばしば危険に陥ることがあり、到底筆舌に尽くせる状況ではなかったが、今日の研究者のために書き表しておくものとする。
福島寅之助らの邪神の神がかりは激しく、教祖様や喜楽を忌避して奥の間にこもり、別派のごとき様相を呈していた。あまりの狂態に、忍耐強い教祖様もついに箒で福島を掃きだし、叱りつけるほどであった。
しかし福島は大音声で教祖様や自分を怒鳴り散らす有様であった。福島の邪神の言を信じきった大勢の信者たちは、福島の後を追って上谷の修行場に行ってしまった。
後には大広間に、教祖様と自分と出口澄子が残された。自分は教祖様の命によって上谷に福島たち一行を追いかけて行った。すると、一行は福島について不動山に登って行ったという。後に残っていた黒田清子に狐がついて妄言を吐いていたので、審神するとコンコンと鳴きながら不動山に行ってしまった。
自分は不動山に登って一同の様子を陰に隠れて見ていた。神がかりになった四方春蔵や黒田清子が教祖様や自分の悪口を言い、早く改心させねば、と言っている。そして夕暮れの瓦屋の竈の煙を指して、神罰のために綾部の大広間を焼いた、上田はやけどをしながら火消しにかかっている、などと出鱈目を言う。
信者たちは、神がかりの福島に赦しを乞うている。そこで喜楽は、藪の中から怒鳴りつけ、福島たちの言動がまったくの偽りであることを説諭した。一同は綾部にいると思っていた自分が突然現れたので驚き混乱し、ほうほうの体で山を下りてきた。
喜楽は福島たちの神がかりがまったくの虚言であったことを暴き立てたので、信者たちも目を覚ますであろうと一人綾部に帰ってきた。しかし相変わらず邪神の言に惑わされて、足立氏、四方春蔵氏、中村竹蔵氏の三人を、喜楽追放の全権大使として綾部に送り込んできたのであった。
審神者は骨が折れるもので、正神界の神からはたいへんに愛されるが、これに反して邪神界の神からは忌み嫌われ、陰に陽に排斥されるものである。
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02 08 〔1045〕
明治三十二年十月十五日、足立、四方、中村の三人は全権大使として綾部にやってきて、自分を本宮山上に誘い出した。三人は、自分たちは役員信者たちの代表としてやってきたのだと、自分に対して退去を勧告してきた。
足立は、教祖様を無学の紙屑拾いの婆さん、自分を牛乳屋と嘲弄し、今後は金光教で綾部の教会の面倒を見るからと侮辱している。中村も自分を悪罵し、怒りで退散させようとしている。
喜楽は黙って聞いていたが、とうとう堪忍袋がこらえきれなくなってきた頃に、出口澄子が一人で登ってきて、教祖様がたいへんに探しているからと迎えに来た。これ幸いと、自分は出口澄子と一緒に山を降って行った。
一時間ほどして、足立ら三人も広間にやっていた。喜楽はここを退去すべきかどうか思案していたが、直日の御魂に省みて、このめちゃくちゃな状態を打ち捨てて行くわけにはいかないと思い直した。
教祖様と四方平蔵氏がふすまをあけて入ってきて、喜楽に、神様のご都合で引き寄せられた方だから、帰ることはまかりならない、と言い渡した。
役員や信者がどんなに反対しても、自分(教祖)と上田先生の二人さえ残れば神様のお仕組みは成就するから、しっかり上田先生の言うことを聞いて他の役員に惑わされてはならない、と四方平蔵氏に説き諭した。
そして、別派を作りたいなら勝手に開くようにと言い渡し、自分(教祖)と上田先生と四方平蔵氏の三人はどこまでもここを動かない決心である、と宣言した。これ以降、四方平蔵氏は陰に陽に喜楽を庇護してくれるようになり、ようやく大本の基礎ができ始めたのである。
今度は京都の谷口房次郎という者が、霊学の修行で天眼通が開け、慢心して四方春蔵や喜楽を押しのけて、金明会の次期教主になろうと野心を起こし、教祖様に直談判に来た。
自分が次期教主になれば、金明会の教えは一年とたたずに日本全国に広がる、と説く谷口に対し、教祖様は、誠というものはそんなものではない、と叱りつけた。そして、自分はどこまでも上田先生と教えを開くつもりだからと、逆に谷口に退去を命じた。
谷口は上谷に行って、次の上田反対運動の作戦を練っていた。
また足立正信氏も、金明会の勢いが将来的に伸びるだろうと踏んで、教祖様の娘婿となって次期教主となることをもくろんでいた。四方平蔵氏から綾部の金神さんの噂を聞いた金光教は、出口教祖の人気を利用して金光教の教師にしようとし、足立氏が受け持ち教師として送られてきたとう経緯の人であった。
中村竹蔵は、難病を助けてもらって熱心な信者になった。最初から教祖様の信者であったが、次第に慢心を起こし、自分の女房を離縁して教祖様の娘婿になろうと企んでいた。
四方春蔵は上谷の財産家の息子であったが、邪神がうつって野心を起こし、弟に後を譲って自分は教祖様の娘婿になろうと画策していた。
足立、中村、四方春蔵は三つ巴となって暗躍していたが、そこに突然、喜楽が世継ぎと神様から示されたので、三派は喜楽を攻撃することになったのである。そこに谷口がまた出てきて野心を抱いて運動をする。
喜楽や澄子はそんなことには構わずに一意専心に霊学の発達と筆先の研究に傾注していた。
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02 09 〔1046〕
足立、中村、四方春蔵らが喜楽への反対運動を激しくしてきたので、福島寅之助氏の神がかりはますます激しさを増した。谷口もそれに加わり、遂には教祖様を退隠させて喜楽を放逐しようと謀議をこらしていた。
福島氏の荒れ方は次第に激しくなり、遂には中村や四方春蔵にも手に負えなくなってきた。巡査もやってきて小言を言うようになってきたので、祐助爺さんが喜楽に助けを求めてきた。
教祖様はこれを聞いて、上田先生一人で邪神の群れに飛び込むことはならぬ、澄子を連れて行くように、と命じた。自分は祐助爺さんと澄子と三人連れで上谷の修行場に駆け付けた。
福島ら神がかりの連中は家中を暴れまわり、中村、四方春蔵、谷口らは手品がききすぎて手が付けられなくなり、家の隅で小さくなって震えている始末である。
神がかりの福島は喜楽の顔を見ると、信者らに霊縛するようにと命じた。一同は手を組んでウンウン唸っているが、喜楽の身体には何の影響もない。そこに澄子が現れてウンと一息にらむと、二十余人が一時にバタバタと将棋倒しになり、身体強直して動けなくなってしまった。
足立、中村、四方春蔵らは蒼白となり、許しを請うのみであった。澄子が改心すればゆるす、というと一同の身体はたちまちもとに戻った。
村上房之助、野崎篤三郎はどこともなく姿を隠して帰ってこない。二人の両親が、大切な息子を狂人にしたと怒鳴り込んできた。喜楽が両親を諭していると、村上・野崎両人は、新しい信者を連れて帰ってきた。
福島氏はひとまず八木へ帰ることになり、後は喜楽と澄子が審神者となってひとまず金明会は治まるようになった。反対者たちもようやく教祖様や喜楽の指図に従うようになった。
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02 10 〔1047〕
明治三十四年の十月ごろの話である。警察署から毎日のように、宗教として認可を得なければ布教を許さないと言ってきた。明治二十二年の憲法発布で信教の自由が許されて以来、そんなことはない、と反論しても承知しない。
しまいには入り口に巡査を張り番させるようになり、信者が来なくなってしまった。教祖様は神様に伺って、警察の言うことは取り合わないように、と申し渡したが、警察の干渉はますます激しくなるので、教祖様へは内密にして静岡の稲荷講社の長沢翁に相談に行った。
教祖様はこれを聞いて怒り、弥仙山の中腹の社にお隠れになってしまった。自分は何も知らずに、長沢翁と相談したとおり京都で宗教法人の手続きをしようとしたが、印形がひとつ足りない。
そこで連れの者を綾部に使いに出し、自分は京都に残って布教をしていた。しかし使いの者は一向に戻ってこず、綾部から五人の信者がやってきて、京都でしばらく稲荷縛りをしようという。
そこで稲荷下げを縛って歩いていたが、あるところでインチキ託宣の化けの皮をはいだところ、そこの稲荷の信者と喧嘩になり、向こうはゴロツキも呼んできて大騒ぎになった。すると五人の信者はいつのまにか向こうについてしまった。
しかし、なぜか稲荷下げの陣営は、味方のゴロツキと喜楽を取り違え、金明会の五人と味方のはずのゴロツキを打ちすえてしまった。喜楽は駐在所に逃げ込んでかくまってもらい、そこを出るときに正体がばれそうになったが、京都の侠客に送ってもらい、無事に綾部に着いた。
帰ってみると、中村や四方春蔵が自分の荷物をひっくくって片づけてしまっている。そして教祖様は弥仙山の社に勝手にこもったということで、駐在所に引っ張られていた。
喜楽が駐在所に駆け付けて、代わりに尋問を受けた。信教の自由を盾に尋問に答えて、その場は帰してもらうことになった。実際には、教祖様は社の神主に許可を取って籠ったのであって、勝手に社に入ったわけではなかったのであった。
弥仙山籠りの件はこれで方が付いたが、幹部連中が上田は悪神だと言ってやってきてしきりに喜楽を困らせた。
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02 11 〔1048〕
自分を排斥しようという反対者たちの活動は、次第に露骨になってきた。大原というところに泊まった帰り、地獄谷というところにさしかかると、羽織の紐がほどけて脱げようとする。
不思議に思って鎮魂していると、十人ほどの暗殺隊が待ち伏せしていることが霊眼に見えた。四方春蔵が自分に同行していたが、四方も共謀者だったのである。
そこで、四方春蔵に先に行くようにと命じると、四方は計画に気づかれたことに驚いて逃げてしまった。少し先に行くと、暗殺隊は計画が漏れたことを知って、辺りからごそごそと出てきてお迎えに上がったのだ、などと出まかせを言う。
喜楽は彼らに先に歩くように言い、自分は一番後からついていった。一人逃げ二人逃げ、とうとう残りは五人になってしまった。
そうして帰ってくると、教祖様は家の前の岩に赤い真綿と白い真綿を重ねて、喜楽の無事を祈願してくれていた。逃げ帰った連中は教祖様に叱られて、お互いに罪をなすりあっていたが、喜楽は済んだこととして許した。
幹部たちは、喜楽の言動は悪の小松林だから改心させなければならないが、肉体は神様の御用でお使いになるのだから綾部に居なくてはならぬ、と無茶と言ってさんざん自分を苦しめた。
神様からは早く布教の活動をしろと言われ、往生した。また別の機会に京都へ来ないかと言われて出立したが、これは自分を途中で待ち受けて殺そうとするたくらみであった。向こうが短刀を抜いたので、こちらも短刀を抜いて覚悟を示したところ、怖気がついたようで、とうとう勝負はせずに連れだって綾部に帰ったこともあった。
また苦心して大阪に出て、内藤氏の家に落ち着いていた。すると偶然、中村、竹原、四方らが家の前を通った。声をかけると、自分の留守中に喜楽が書いた書物を五百冊ほど焼いてしまったという。
あわてて園部までもどったが、四方平蔵氏がまた小松林の四足の守護神、とやりだす。癪に障ったから、揚げ豆腐と牛肉を牛乳で煮させて、洋服を着て四つん這いになって食べて見せてやった。
園部の信者たちは、そんなことをするとますます誤解されるからやめてくれ、と泣いて頼み込んできた。
四方氏らは小松林が喜楽の肉体から抜け出るよう証文を書け、と言ってきた。彼らが字が読める者がないのを幸い、漢字で出鱈目な証文を書いてやったが、後でまた、喜楽が幹部をだました、やはり悪の御魂だと言って責められた。
帰ってみると、喜楽が書いたものはすべて焼かれてしまっていた。自分の言うことはまったく聞いてくれないので、久しぶりに教祖様に面会したところ、もうよそへは行かないように、とのお言葉であった。
喜楽は幹部連中が書物を焼いたことを報告したので、教祖様は幹部たちをお叱りになった。それでこの件は決着がついた。
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02 12 〔1049〕
その後も自分が鎮魂を教えてやった男が慢心して信者の女房を取り、それが京都でにわか芝居のネタにされ、泣きつかれて喜楽が侠客に金を払って芝居の興行をやめさせた、というようなこともあった。
明治三十五年正月に直日が誕生した。教祖様のお筆先で、この子は水晶の種だから種痘を行ってはならないとおっしゃった。一方で役場は決まりだと言って種痘を迫る。
仕方がないので澄子と種痘をしない罰金を工面して、役所に支払った。しかしこれを聞いた幹部連が、種痘をしないために罰金を支払ったのは日本が外国に負けた形になる、と言いだして、警察・役所・検事局と押しかけて、罰金を返せと騒いだ。
しかしお上は相手にしなかったので、そのうち泣き寝入りとなった。それからも喜楽が毎年金を工面して罰金を払っていたが、幹部連はそのことは知らなかったので、お上が罰金を言ってこなくなったのはとうとう神様が勝ったのだ、と得意になっていた。
あまり得意がっているので、とうとう自分が罰金を毎年払っていたのだ、と言ってしまった。するとまた小松林の悪神が、とやりだした。
ある日園部から支部の発会式をやるから出席してくれと言われて出向いてみたが、それは真っ赤な嘘で、連れ出した幹部連でよってたかって喜楽を池に突き落したり、旅館で寝ているときにお灸をすえたりして、小松林を追い出すのだとさんざんな目にあったが、調べてみると陰から中村が指図していたのであった。
こんな風であるから、他所へ行こうと思っても熱心な信者が切腹するのと引き留めて、どうにもしようがない。
明治三十七年に八木の氏神祭と福島氏の内祭があったので、西田と示し合わせてこれを機に夜逃げすることにした。四方平蔵、中村竹蔵、義姉のお竜さんと同道していた。四方氏や中村氏は自分を見張っていて隙がないので、夜、肩を揉めと無茶を言って夜更けまでもませた。
すると四方氏と中村氏は眠ってしまった。お竜さんは今のうちに早く行けと手真似で知らせる。自分が夜逃げしたというので、大騒ぎになって皆で園部を捜索したという。
しばらくあちこちに逗留して亀岡から汽車で王子に行こうとしたときに、四方平蔵氏につかまった。
綾部に帰ってきてからは半年ほど六畳間におしこめられた。古事記や日本書紀を読もうとしても、角文字が書いてあると言って取り上げられてしまう。元神官の福林氏に書物を借りて、布団の中でこっそりと読み、足音がするとしまう、という始末であった。
その後事情があって、明治四十一年まで官幣社の神官をつとめたりした。幹部連は日露戦争が世の中の立て直しだと誤解していたが、何事も起らぬので次第に数を減らし、死去する者もあった。
明治四十二年ごろにはもう大丈夫だと思って戻ってきて熱心に布教に従事した。それから今日の大本の基礎ができてきたのである。
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03 13 〔1050〕
喜楽は到底、教祖様の心言行を述べるほどの器ではないが、一部分にもせよ教祖の実行されたことを述べておかなくては、それらを土中に埋没するごときものであるから、冠島にお渡りになった事実の大要を述べておく。
日清戦争の後、義和団の乱が起こり、日本も鎮圧軍に加わった。この舞台において神国神軍の武勇を現し列強の侮りを防ぐ必要がある、という神勅を得て、教祖は六十五歳の老躯を押して、丹後沖の孤島・冠島に神国勝利の祈願をするために舞鶴にやってきた。
共としては自分、出口澄子、四方平蔵、木下慶太郎の四名であった。舟を雇って渡ろうとしたとき、天候がにわかに悪くなって船宿の主人は出向を止めたが、教祖は聞かない。
木下慶太郎が船頭二人を説得して連れてきて、半里でも漕げたら全部の賃金を払うとまで言い、ようやく出航することを得た。
博奕ケ崎まで来ると雨は晴れ、風は凪いで空には満点の星が現れた。冠島の島影が見え始めたころ、東の空に茜が指して夜が明けてきた。舟は無事に島に安着した。
教祖は波打ち際で禊をなし、島の老人島神社にて治国平天下安民の祈願をこらした。帰路は波も静かに舞鶴港に立ち返り、綾部に帰って数多の信者に迎えられた。
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03 14 〔1051〕
教祖の一行は明治三十三年旧六月八日に冠島の参拝を無事に終えた。次いで、生き神艮の金神を奉祀して天下泰平と皇軍の勝利を祈願しようと、古来人跡なき沓島に渡ることになった。
一行九人は前回同様、舞鶴の大丹生屋に宿泊して舟を雇い、穏やかな海面を沓島に向かって滑り出した。舟人の話によれば、ここ五年ほどでこれほど静穏な海上はないとのことである。
途中すれ違った釣り舟から鯖を二十尾ほど買い上げて、お供え物とした。まずは冠島に上陸し、祝詞を奏上して木下慶太郎、福林安之助、四方祐助、中村竹蔵の四名を島に残し、社殿の清掃を命じた。
その他の教祖、自分、出口澄子、四方平蔵、福島寅之助の五名は沓島に向かった。沓島への途上の巨浪に福島氏は肝をつぶし、船底にしがみついて発動気味になっていた。それ以降、福島氏は二度と沓島には参らないと懲りていた。
冠島で清掃にあたっていた中村竹蔵は激しい腹痛に襲われ、神明に罪を謝したところ激痛が止んだ。頑固な中村も、その神徳に感激した様子であった。
沓島は冠島と違って、人が渡らない島だけに岩に囲まれて適当な上陸地点が見当たらない。教祖はぜひに釣鐘岩につけよ、と言った。自分は縄を持って岸壁に飛びつき、船頭と共に舟を縄で固定した。
少しばかり平面のある場所を頼りに岩場を登って行き、百尺ほど高所の二畳敷きほどの平面の場所に、綾部から持ってきた神祠を設置し艮の大金神国常立尊、竜宮の乙姫、豊玉姫神、玉依姫神をはじめ天神地祇を奉祭し、祈願の祝詞を奏上した。
文禄年間に海賊がこの冠島・沓島を一時ねぐらにしたことがあった以外には、誰も沓島に来たことがないというところへ、百難を排して教祖が渡り、天下無事の祈祷をされたということで、東京の富士新聞や福知山の三丹新聞など諸新聞に掲載された。
沓島参拝を終えた後、冠島に戻り神前に礼拝し、供物を献じて島を一周した。冠島は世界のあらゆる草木の種が集まっていると言われている。世の俗塵を一切払ったような観念が湧いてくる島であり、信徒たる者ぜひ一度参詣すべき場所である。
九日の夕方、無事に舞鶴に到着し、翌日記念撮影をなして、めでたく本宮に帰ることとなった。
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03 15 〔1052〕
出口教祖は清国の騒乱に東洋の前途を気遣い、神命のまにまに二度までも無人島にわたって渡海を成功させた。それに反対の役員たちは、上田会長を道案内として沓島参拝を成し遂げようと、強制的に自分を同行させようとした。
これまでも彼らの奸計によって九死一生の目にたびたびあってきたが、ここで逃げては神の道を宣伝する者の本意ではないと決心し、彼らとともに出修参拝することになった。
万一をおもんばかり、熱心な信者たちを同行させた。敵味方合わせて二十一名は明治三十三年七月二十日に出発を決行した。
冠島の手前になって、東の空がおかしな色になってきた。船頭たちは大しけになると慌てふためいている。
山岳のような波が舟を翻弄し、大の男たちがすっかり弱ってしまっている。会長は一生懸命に天津祝詞を奏上した。少し風が和らいだ間に、四隻の舟を二隻ずつ組みよせた。すると今度は一層激烈な大しけが襲来した。
教祖は、今回は罪が深い者ばかりの参拝だから、よほど神様に頼んで気を付けないと大変だからと、危急の際に開いて見るように会長に筆先を授けていた。
会長は筆先を披見するのはこのときばかりと開いて見ると、平仮名の筆先にて、神様の教えはこの舟の櫓櫂を操る舟人のようなものであるから、今の困難を腹に染みわたらせて恵みを悟り、信心を怠るなとの戒めであった。
また筆先には、上田が本田親徳先生から長沢豊子刀自を経由して授けられた巻物を今こそ開くように、と書かれていた。
そこには救世の神法、霊学の大本、神業が書かれていた。会長はこの神法を実行するのは正に今と言霊を上げると、不思議にも雨風波はやみ、静まった。舟人たちは驚いて、舌を巻いて感嘆している。
舟はようやくにして冠島に避難することを得た。老人島神社に供物を献上して救命の神恩に感謝する祝詞を奏上し、罪重い者の沓島参拝は神慮に叶わないことを一同感じ、舞鶴に帰着することになった。
舞鶴の旅館・大丹生屋の一間で休んでいたところ、会長のところへ杉浦という男がやってきて、涙を流しながら懺悔した。実は数名は謀議し、上田先生の巻物を奪って何々し、四方春蔵を後釜にしようとしていたという。
教祖の命によって、四方平蔵氏と四方春蔵が迎えにやってきた。杉浦の改心を聞いて、四方春蔵も陰謀を逐一自白し、真心から涙を流して謝罪するさまは、かえって可哀そうに思えた。
雨降って地固まるとやら、今度の遭難にて誰も彼も悔い改め、教団内も道の曙光を認めるようになってきた。これもまったく神の深遠なる思し召しによることと、会長はますますその信念を強固ならしめた。
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03 16 〔1053〕
農作業の忙しい盛りの明治四十二年六月二十一日、喜楽、梅田柳月、大槻伝吉の三人は冠島・沓島参拝に出立した。しかし海は荒れており、頼んだ水夫も今は冠島の明神が御渡海される日だからと舟を出そうとしない。
喜楽の説得に、水夫はしぶしぶ、明朝一時まで天気を待つことになった。時間になると水夫たちがやってきたが、案の定天気は治まっている。二時に出港して、いつもは十二時間はかかる航海が、四時間足らずの六時前に着いた。
喜楽は冠装束いかめしく神前に進み、供物を献じて祝詞を奏上し、拝礼した。綾部から持ってきた石と、神前の丸石を一個交換して頂戴した。
祭礼で泊まり込んでいた氏子たちの誘いを厚く感謝しつつ断って、すぐに船着き場に戻っていった。昨年来、名木の冠島桑が何者かに盗伐されたり、鯖鳥が密猟されて激減したりといった事件を、水夫が悲しそうに物語る。
続いて舟は沓島の釣鐘岩の下に漕ぎつけた。明治三十四年、出口教祖は三十五名教え子を引き連れて参拝し、天岩戸の産水と竜宮館の真清水を海原に散布し給い、祈願をされた。
教祖は世界平和のため、日東帝国の国威宣揚のために祈願をさせ給うたのである。水夫に頼んで舟をつけてもらい、岩をかき登った。
到着早々癪に障ったのは、かかる神聖なる神島にまで密猟者が入り込み、平地にわら小屋を結んで鳥網を張回している。しきりにアホウドリを捕獲していたが、教服姿の自分たちを見てあわてて逃げだした。
残っていた一人を招いて、このような神域での危険な殺生商売をやめるようにと懇切に説いたが、耳に入りそうな気配はない。裁判官でなくて安心した、と口走るのが関の山であった。
昨年来、出口教祖は冠島・沓島の密猟を嘆き、鳥族がいたづらに生命を奪われることを憐み、祈願を御執行されていた。本日は満願の日のため、自分たちを特に御派遣になったのである。
不思議にも、明治四十二年六月二十二日、京都府の告示にてこの両島を含む地域が禁猟区域となったのである。
十年以前に出口教祖が建設せられた神祠は半ば朽廃し、来春までに造営せんことを神前に祈願宣誓した。それから自分たちはお籠りの岩に歩を進めた。
見れば上は絶壁に隔てられ、眼下は深き谷底に海水が青くただよっていてものすごい。ここに教祖の真筆をもって歴然と神の御名を記されている。改めて教祖の豪胆と熱誠に感じて拍手九拝、感嘆の声が口をついて出てきた。
大槻伝吉は、教祖と五野市太郎氏と三人で、十三日間静座して日露戦争全勝祈願をこらしたときの思い出を語った。舟人たちも、教祖がこんな無人島で荒行をされた思い出を話している。
正午に帰路につき、二十二日の午後四時、舞鶴の大丹生屋に安着した。
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03 17 〔1054〕
明治三十三年八月一日、喜楽は郷里の義弟が危篤の電報に接して、急いで故郷へ帰った。義弟の西田元吉は重体であったが、神界へ祈願の上全快することを得た。これが西田元教が信仰の道に入ったきっかけである。
喜楽が綾部へ帰ってみると、門口に荷物一切が荒縄や新聞紙で包んで放り出してある。聞けば、四方春蔵が独断で役員会を開き、教祖にも内緒でこんなことをしたのだという。
四方春蔵は陰謀が露見し、四方平蔵を取り持ちにして謝罪の嘆願をなし、ひとまず無事におさまった。しかし機会さえあれば上田を追い出してやろうという考えは少しも離れなかった。
自分は教祖に招かれて、義弟が回復した報告をなして喜び合っていたが、そこに中村竹蔵がやってきて、お筆先を盾に喜楽を非難し始めた。教祖は中村をたしなめ、三宝の上に置かれた筆先を気楽に渡された。
そこには、普通の人間では行かれないところに出修する旨が書かれていた。教祖のほかに、上田海潮、出口澄子、四方春蔵の三人を連れて行くとあった。
自分は四方春蔵が同道することに異を唱えたが、神様の主意を教祖に諭されて納得した。その日は八月七日であった。
教祖は自分に、恐ろしいことがあるから裏口を開けてごらんなさい、神様が皆の戒めのためじゃとおっしゃっている、というので、側にいた四方祐助と四方春蔵を誘って見てみた。
三人が見回していると、カエルがミミズを飲み込み、蛇がカエルを飲み込んだ。次いで、自分が寵愛しているお長という雌猫が蛇をかみ殺した。すると大きな黒猫が現れてお長を追い、お長は黒猫にかまれて木の枝から墜落して伸びてしまった。
自分はお長の敵と黒猫を木から揺り落そうとしたが、猫の糞まみれにされてしまった。三人は、上には上があるものだということを知った。
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04 18 〔1055〕
明治三十三年八月八日の午前一時、広前の門口を立ち出た。信者たちはお見送りを申し出たが、教祖は神様の御命令を畏んでそれを許されなかった。
途中、福林安之助が山道で随行を申し出た。教祖は固辞されたが、福林は嘆願し容易に初心を変えようとしなかった。海潮はその心を汲んで、荷物持ちとして連れて行くよう教祖に頼んだ。
教祖もその誠意に感じられ、ようやく随行が許された。途中、木崎にて信者の宅に一泊した。そこでは教祖派と四方春蔵派の信者たちが、教祖の目の前で言い争い、争論を繰り広げていた。
教祖は庭前に四頭の犬が遊んでいるところに、一片の食物を投げ与えた。すると犬たちはたちまち争奪をはじめた。教祖は微笑みながら、人心の奥底はたいていかくの如しと言ってこの家を立ち出でようとされた。
家の主人・上村氏はこの教訓に恐縮したが、上村氏に反対の一派の者たちはますます暴言をたくましくし、教祖の前で黒白をつけようと強請やまなかった。これには海潮もほとほと持て余した。
反対派は席を蹴立てて帰り、四方春蔵と福林氏も彼らに付いて出て行った。福林氏は反対派の中田氏宅に着くと、疲れた風を装って四方春蔵らと彼らの密議を残らず聞いてしまった。
戻ってきた四方春蔵は、今日は反対派の中田氏宅にもう一泊しましょうと申し出てきた。教祖は少しく怒って、たとえ野宿をしても彼らの家には泊まりたくないとご機嫌が悪かった。
一行は夜道を歩いてようやく、夜更けに八木の会合所である福島氏方に着いた。
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04 19 〔1056〕
当夜は八木会合所の祭神および会場移転式であり、多くの会員が集まっていた。不意に教祖御一行のお立ち寄りとあって、一同にわかに驚喜し色めき立ってちょっとした騒動になった。
教祖は見かねて慇懃に挨拶をなし、大神の奉斎所を遷座する大切なお式を軽率に執行して罪を重ねてはならないと戒めた。幸い、教祖に祭主を懇願して移転式を完了し、講話をなして、午後十一時には会員一同退散することになった。
翌日、神前に祈願をこらして行程の如何を占い奉った。すると皇神は海潮の手を通じて教え諭し給うた。
『世の中の人の心のくらま山 神の霊火に開くこの道』
この神詠によって、旅の目的地が鞍馬山であることがうかがいしれた。八木の停車場から列車に乗って、花園駅にて下車した。教祖は一行の先に立って進まれ、徒歩にて北野天満宮に立ち寄った。
教祖は菅原道真公の故事を引き合いに、艮の金神・大国常立尊のお身の上を嘆き、一刻も早く大神を世に出さなければとの追懐と決意を露わにした。海潮と澄子はその真心に貰い泣きをした。
一行は鞍馬に到着し、その夜は御宮の前でお通夜することになった。四方春蔵は寺に備えてあった御神籤をいただいたが、よほど悪い内容だったと見えて『オウ失敗った』と思わず口外するほどであった。
その夜、福林は旅の疲れで前後不覚に寝入ってしまったが、ふと夜中に目を覚ませば、傍らの四方春蔵の姿が見えない。驚いて探すと、外の方から四方が呼ぶ声がする。
急いで外に出てみると、大きな火の玉がお宮の前を行きつ戻りつ駆け巡っていた。しかも、その火の玉の尾には四方春蔵の姿があった。福林が火の玉を追っていくと、不思議にも四方春蔵はそこで大きなたき火をしていた。
福林が声をかけると、四方は恐ろしさに震えて泣いていた。それから連れだってお宮に戻り、二人は寝に就いたという。
ところが、夜が明けてから福林が昨夜のことを四方に尋ねたけれど、何も知らないという。福林は、昨晩四方がたき火をしていた場所に行ってみたが、その跡もなかったという。
海潮は教祖に対して、鞍馬参りの御神慮をうかがったが、教祖はただ、先に行ったらわかりましょう、と言われたのみであった。
帰途は亀岡から八木に出て一泊したが、四方は終日蒼白な顔をしてしょげていた。その夜、四方は園部まで行って友人に会い、今度は死ぬかもしれないと暇乞いをしたという。教祖はこのことを聞いて四方を叱った。
四方はこの出修から戻って一か月ほどで患い、帰幽してしまった。その前に四方から使いが来て、先生に一度来てもらわなければ死ぬにも死なれぬ、というので見舞いに行った。
海潮は四方に『許してやる』と言ったので、四方は安心して帰幽した。時に十八歳。霊学に達した男であったが慢心取違の末、神罰をこうむって一命を終えたことは遺憾のことであった。
ある夜、にわかに大風が吹いて広前の杉の樹が轟々と唸ったことがある。後に教祖にうかがったところ、鞍馬山の大僧正が来て本宮山へ鎮まったという。またその眷属は馬場の大杉へ行ったという。その後馬場の大杉には蜂のごとくたくさんの眷属が見えたということであった。
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04 20 〔1057〕
明治三十四年旧三月八日、元伊勢の御水の御用があった。世界広しといえども、生粋の水晶の御水は元伊勢の天の岩戸の産盥産釜の御水よりほかにはない。
その御水を汲んでこなければならぬという御筆先が旧三月一日に出たのである。この御水は昔から汲み取り禁制で、神官が見張りをしている。事前に木下慶太郎が下見をした上で、一行四十二名が出立した。
見張りの神官が日暮れに引き上げるのを見計らい、木下慶太郎が大急ぎで岩戸へ駆けつけた。小さな流れにかかった大きな朽木を渡り、竹筒にいっぱい産盥・産釜の水を汲んで引き上げてきた。
教祖は御用が無事に勤められたことを聞いて非常に喜ばれた。翌日は御礼参りに行って、夕方五時に出立し、夜通し歩いて綾部に戻ったが、何の御用をしてきたのか知らぬ者も多かった。
汲んできた御水は神様にお供えしてそのおさがりを皆で少しずついただき、大本の井戸と、元屋敷の角蔵氏方の井戸と、四方源之助氏宅の井戸へと五勺ほどを注いだ。
残りは沓島・冠島の真ん中、すなわち竜宮海へ注ぐようにとの教祖の言いつけであった。
大本の井戸に御水を注いだとき、教祖は、今に京都大阪からこのお水をいただきに来るようになる、と言われたが、今日ではそれは実現している。元屋敷の井戸、四方源之助氏の井戸も、両方とも今では大本の所有となっている。
御水の御用ができたころ、大本で三つの火の不思議があった。お広前のランプが落ちて大事になるところをようやく消し止めた。それから二三分のうちに風呂場から出火し、海潮が見つけて大騒ぎとなり、消し止めた。
するとまた、役員の背中にランプが落ちて危ういところを無事に消し止めた。わずか二三分の間に三つも火事があったのである。この時海潮は神がかりとなって深い神慮を洩らされた。
また御水は後に、教祖様が役員信者を連れて竜宮海に注しに行かれた。この水が三年たてば世界中へ廻り、世界が動き出すということであったが、果たして三年後には日露戦争が始まったのである。
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05 21 〔1058〕
明治三十七年になると日露戦争が勃発した。四方平蔵、中村竹蔵などお筆先を信じきっている連中の鼻息がにわかに荒くなってきた。
喜楽が古事記を研究したり霊界の消息を書いていると、中村竹蔵がやってきて、喜楽が角文字などを書いて改心しないから、神業が遅れているのだと難癖をつけてきた。
そして、喜楽の肉体はご神業に必要だけれども、喜楽に取り憑いている小松林命が悪さをしているのだ、と言って、三方から怒鳴りたてて攻め立てる。
そこへ福島久子もやってきた。四方平蔵は、福島久子にも加勢を頼もうとしていたので、喜楽は便所へ行く風をして裏口から逃げ出し、大槻鹿造宅へ逃げ込んだ。
鹿造はかくまってくれ、福島や中村や四方が来たら、牛肉のにおいで往生させてやったら面白いだろうと、店から上等の肉を持ってきて煮て食い始めた。
中村竹蔵が喜楽を探しに鹿造宅にやってくると、鹿造夫婦は中村をからかって、牛肉を勧めはじめた。中村は憤慨して、喜楽を引っ張ろうとするので、自分は牛肉を三百目一人で食ったとからかった。
中村は躍起となり、悪い身霊の因縁だと鹿造夫婦をけなした。鹿造は怒って中村に拳骨をくれる。中村は、酒呑童子の霊など恐れるもものか、と言いながら帰ってしまった。
綾部にいてはうるさいというので、園部の支部長がやってきたので、日暮れ頃から園部に行って隠れて布教をしていた。
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05 22 〔1059〕
明治三十七、八年ごろは、日露戦争の勃発で四方平蔵、中村竹蔵ら十二人の幹部たちは、いよいよ世の立替で五六七の世になる、それまでに変性女子を改心させねばお仕組が遅れると信者の家を宣伝に回っていた。
十二人の熱心な活動のおかげで、喜楽の言うことを聞いて布教に従事してくれたのは、西田元教と、浅井はなという婆さんの二人だけであった。
三人は園部を根拠として細々と宣伝をやっていた。片山源之助という材木屋が園部に参拝して信者となり、幽祭の修業を始めた。天眼通を習得し、旅順の要塞を透視したり日露戦争の始末を予言したり不思議なことが実現したので、非常にたくさんの信者が集まってきた。
綾部から幹部が来て、喜楽は小松林の悪神が憑いていると吹聴しまくるから、信者たちは一も二もなく信じてしまい、会長を軽蔑して片山を先生と尊敬しだした。
西田はたいへんに憤慨したが、綾部の妨害がはなはだしいので挽回することができなかった。仕方なく自分は綾部に帰り、平仮名ばかりの経典を作って西田に持たせ、宣伝に歩かせた。
綾部にいると、中村や四方平蔵がやってきて、ふらふらとあちこち布教に歩いたりせずに早く改心しろと責め立てる。始末におえないので、しばらく経典を書くことに全力を尽くしていた。
西田が北桑田に来てくれと頼んできたので、八木の祭典の出張にかこつけて抜け出した。西田は山里で爺さんの鎮魂をしてリウマチスを治し、歩けるようにしてあげていた。
しかし非常に執着心の強い爺さんだったから、欲張って西田の怒りを買い、それきり偏屈人の西田は寄り付かなくなってしまった。また西田とともに、リウマチで苦しんでいた小西松元という男を訪問し、そこを根拠に布教していた。
小西は、川漁が得意で魚をたくさん取っては朝から晩まで女と酒を飲んでいるような親父だったので、リウマチにかかってしまった。
園部にやってきて西田の鎮魂で足が立つようになり、熱心な信者となった。しかし養生せずに川漁に出て川に落ち、またリウマチが再発して苦しんでいた。
この男を本復させて神様の御用に使おうと、西田と二人で訪ねて行ったのである。喜楽は初めて小西に面会し、二日ばかりの間に二三回鎮魂をしたところ、すっかり全快した。
小西は熱心に布教し、信者が集まってきて毎日二三十円ものお賽銭収入があるまでになった。すると小西はよい気になり、信者の女に手をかけたり、朝から晩まで酒を飲み始めた。
そのとき喜楽は京都の皇典講究所へ通っていたので小西の広間をかまうことができなかった。そうすると、小西は慢心して西田の言うことを聞かなくなってきた。
小西夫婦の息子は日露戦争に出征していたが、電報間違いで戦死の知らせが届いた。すると小西夫婦は西田を問い詰め、真冬の夜に外に出されて酷い目にあわされた。
しかし小西の息子・増吉は幾度も危険な目にあいながら神様に助けられ、連隊長の従卒になって楽に勤めて帰ってきたのであった。
また、自分が建勲神社の主典を務めていたとき、小西から手紙が来て矢代というところに大変にきつい曲津がいるから助太刀に来てほしい、と依頼があった。
そこで公務を繰り合わせて行ってみると、吉田竜次郎氏がひどい博奕打ちで祈祷してほしいという。明治四十年の夏の初めであった。吉田宅に行ってみると、自分が来るのを知って曲津は早くも逃げ出してしまっていた。
それから吉田氏と懇意になり、竜次郎氏は神社に訪ねてきて神勅をうかがったり、また細君の熱心で後に大本に帰依するようになった。
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05 23 〔1060〕
明治三八年の夏、西田元教は宇治で数十人の信者をこしらえて布教していたが、あまりの多忙に自分に応援を頼んできた。そこで綾部を未明に飛び出して来た。
宇治にきてみると、家の内にも外にも参詣者がいっぱい詰まっている。海潮が来たというので、たくさんの信者が涙を流して喜んでいた。またいろいろの病人がご神徳をいただいて帰るので、宇治の町は坊主と医者以外は全部信者になってしまった。
小西の広間が心配になったので、西田と才幸太郎を視察に遣わした。小西の広間は繁盛していたが、神がかりがおかしいので、西田が調べると、押戸に手のとれた古い仏像が五六個並んでいる。
西田は、これは狸が守護しているから川に捨てろと小西に勧めてまた喧嘩になり、西田は宇治に戻ってきた。すると西田が瘧で苦しみだした。海潮が審神すると西田は口を切り、自分は仏像を守護していた狸で、西田が仏像を川へ流せというから命を取るのだ、と意地を張る。
そこで西田の頭にすり鉢を載せて灸をすえると、落ちてしまった。また三日目になると猛烈に襲ってきた。鎮魂してまた退散させる。二三度繰り返すととうとう退散してしまい、西田は元通り元気になった。
そうこうするうちに、三牧次三郎という中村派の男が内へやってきて、役員にいろいろ海潮や西田の悪口を言い、自分と西田を放り出してしまった。
西田は中村派の計略にかかって荷物一切を取られて放り出されたので、夫婦で伏見に行った。妻のお雪は撚糸工場で働き、西田は按摩を稽古して商売がてら伏見地方を布教していた。
明治四十二年に海潮が綾部に帰って大広前を建てたりお宮を建てるようになってから、綾部に戻って宣伝をするようになったのであった。
三牧ら中村派は、狸の憑霊を利用したりして迷信家の信用を得て、自分たちを放り出すことに成功したのであった。それから自分も病人の鎮魂がさっぱり嫌になり、神懸の修業も断念してしまった。
大正五年に横須賀の浅野さんの宅に行ったとき、参考のために幽斎の修業をして見せたのが元になって、浅野さんが熱心に霊学を研究し始めることになったのである。
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05 24 〔1061〕
明治三十三年八月下旬、元治郎が危篤との知らせを受けて郷里の穴太に帰った。鎮魂をしてみると、産土の小幡神社に呪い釘が打ってあり、それを抜き取るようにとの御告げがあった。
行ってみると果たして、実際に小幡神社の杉の木に釘が打ってあったので抜き取った。村の衛生係は猩紅熱だと言ったが、実際に釘を抜くことで元治郎の容態はとても良くなり、見舞いに来ていた人たちも神徳の広大無辺なことに驚いた。
元治郎は喜楽の留守宅で鍛冶屋を営んでいたが、同業者に恨まれてしまった。下男の幸之助は元治郎を恨む鍛冶職人たちに頼まれて、呪い釘を打ち、元治郎を呪い殺そうとしたのであった。
幸之助は会長に呪い釘のことを見透かされ、恐ろしくなって夜のうちに家族を連れて逐電してしまった。
元治郎はこの件がきっかけで博奕をやめて神様を拝む心になり、最後には神の道を宣伝するようになった。
それから喜楽の祖母が八十八歳で亡くなり、また百日祭の後には火事があって家が焼けた。喜楽は火事のことは神様に知らされていたので、村の他家から預かっていた農具を別の小屋にしまっておくように注意しておいた。そのおかげで預かった農具にはまったく被害がなかった。
喜楽の母と兄弟は二三年綾部に来ていたが、役員の反対がきつく、あるとき小松林の母親だからという理由で蹴り倒され、折よくそこへ帰ってきた西田に介抱されてようやく息を吹き返したということがあった。
母はたいへんに怒ってしまいには穴太へ帰ってしまった。そのとき役員は迷信上からやったことで、決して悪いことをしたとは思っていなかった。お道のため、世界のためになることだと固く信じて、喜楽の母の横腹を蹴って気絶させるようなことをして、得々としていたのである。
実に、迷信ほど恐ろしいものはないのである。
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05 25 〔1062〕
建勲神社に奉仕中、宇津の小西のところに出張してみたが、小西は信者たちの前であからさまに、この人はもう狐がついて抜け殻となっている、と貶めた。
自分はわざと知らないふりをしていたが、小西は北桑田の信者にも悪口を触れまわして自分の勢力を広げようとする。小西の信者のなかでも、湯浅斎次郎氏は小西のやり方を憤慨していた。
喜楽が建勲神社を辞して御嶽教に奉仕していたころ、小西が自分の息子の嫁に、喜楽の妹をもらいたいと言ってきた。喜楽はそうなったら少しは小西も自分の言うことに耳を傾けるようになるだろうと、妹をやった。
しかし小西は改心するどころか、ますます増長した。しかし信者たちが小西への不信を募らせていき、とうとう一人も信者が来ないようになってしまった。
小西は明治四十三年に独断で大本へやってきて引っ掻き回し、教祖様の嫌いな薬の指図などをして、たいへんに気を揉んだ。やがて綾部に居れなくなって宇津に帰ったが、何人かを抱き込んで大本乗っ取りを計画していた。
湯浅氏は小西の味方のふりをして、彼らの陰謀を残らず大本に報告したので、彼らも策の施しようがなくなり、小西派は空中分解をしてしまった。
小西は京都で御嶽教の教導職になったが、病気治しをした先の家の細君と妙な関係になったのを見つけられ、その細君は井戸に身を投げて死んでしまった。それがたいへんな悶着を引き起こし、喜楽に泣きついてきて、金を無理に出させられた。
小西は京都にもいられなくなって宇津に戻ったが、中風になって弱り、大正六年ごろに帰幽した。
小西の弟子の小沢という男も、支部の娘と関係して放り出されたり、綾部で始終役員と喧嘩したりということを繰り返し、最後には祖霊社で自殺してしまった。杉井という男も大本を混ぜ返し、二代澄子に看破されて叱りつけられ、大本を出て大社教の教会をたてて反大本を宣伝しているという。
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05 26 〔1063〕
明治三十二年の夏、上谷で修業中の喜楽に小松林命が神がかりされ、明治三十五年の正月十五日までは綾部にて迫害に耐えるように、とお諭しがあった。
明治三十五年の正月十五日、今後のことを小松林命に尋ねると、明朝から園部方面に行くようとのことであった。澄子は臨月だったが、神様のお告げに夫婦だけで相談して出立することになった。
園部の奥村氏の別宅を貸してもらい、日夜宣伝した。奥村氏は園部の名望家だったので、その協力を得て地域の紳士連中の入信を得ることができた。
園部に落ち着いてから十二日目に、澄子が出産した夢を見た。神様に聞いてみると、たしかに出産したのでひとまず帰るようにと言われた。一人で綾部に戻る途上、自分を探しに来た四方祐助爺さんに出会った。
四方祐助に澄子と赤子の様子を尋ねたが、爺さんは答えをはぐらかし、自分を不安にさせるようなことを言って、行ってしまった。
綾部の役員信者たちは、無事に長女が生まれたことを告げたら喜楽は安心して園部に戻ってしまうだろう、と考えて四方祐助をよこし、わざと喜楽を不安にさせるようなことを言わせたのであった。
直日は自分が園部で夢を見た日に生まれた。新暦三月七日、旧正月二十八日であった。綾部では教祖様からさんざん小言を言われ、宮参りの済むまでの三十日は蟄居していた。
園部からの手紙で再び綾部を飛び出して、園部で布教をしていた。その間に四方平蔵・中村竹蔵に自分が三年間執筆した五百冊の書物をすべて焼かれてしまった。
それから大阪へ進出しようと、溝口中佐という休職軍人と一緒に、市中の稲荷下げを回って霊術比べをしたりしていた。今から思えば馬鹿らしいことを得意になってやっていた。
しかしこれもうまくいかず、綾部に戻り、明治三十八年の八月まで時を待つことにしたのであった。
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05 27 〔1064〕
明治三十八年二月、四方平蔵と中村竹蔵その他十人の幹部は、本年中に世の中の立替立直しが完成し、五六七の世が出現するとほらを吹きまわってのぼせ上っていた。
中村の女房は、中村が商売もせずに毎日脱線だらけのことを言い歩くので、中村を幾度となく意見していたが、中村は怒って女房を離縁してしまった。そして福島久子を自分の女房にしようと企んでいたが、喜楽に妨害され、中村と福島は非常に喜楽を恨んだ。
明治三十八年は、それから四五年経っていた。教祖から中村に、妻帯せよと命令がくだったので、候補が挙げられた。その中に、教祖の娘で澄子の姉の竜子の名前もあった。
中村たちは、喜楽を追い落とすために竜子を中村の妻に迎えたいと運動していた。一方竜子は、中村の女房になって改心させようという考えもあった。
しかし喜楽は、中村が教祖の娘を妻に迎えてますます威張りだし、これ以上圧迫を受けてはたまらないと教祖様に直訴した。教祖は四方平蔵を呼んで、竜子の縁談は会長の意見に任せるようにと言い渡した。
そこで、木下慶太郎と竜子をめあわせることに決まった。中村には、福島久子の股肱となって働いていた女を女房にした。
中村は非常に落胆し、明治三十九年に狂い死にをしてしまった。福島久子はずっと、現在まで二十四年間不断に反対運動を継続している。
あるとき、布教宣伝の旅の帰りに八木に立ち寄ってみると、福島夫婦はやせ衰え、涙ぐんで控えている。聞いてみると、艮の金神の命令で百日もの断食の修業をしているのだという。
今日がちょうど行の上りで、福島寅之助はこれから天に昇ってみだれた世の中を水晶にいたす役に付くからと、女房と別れの盃を交わしたところだという。
そして喜楽を早く返そうとするので、心配で八木の茶店に休んで遠くから福島の家の様子を考えていた。しかしその後も福島の守護神はでたらめな託宣を繰り返したので、福島は自分でだまされたと気が付いた。
福島寅之助は四五年かけて書いた自分の筆先をすべて焼いてしまい、ご神前をひっくり返してしまったということがあった。
また、自分が浦上を連れて京都方面に宣伝に行くと、どこもかしこも反対者が自分を入れるなと先回りして触れ回り、浦上と二人で途方に暮れてしまったこともあった。
自分たちが憤慨していると、綾部の役員の手先となって信者宅を触れ回っていた畑中という男にばったり出くわした。畑中は自分たちの姿を見ると逃げてしまった。
綾部へ戻ってから浦上は懲りて、餅屋を始めた。喜楽が神様を祀ってやりたいへんに繁盛したが、浦上は慢心して財産を失ってしまった。綾部に居れなくなり、位田に帰って細々と豆腐屋をしているという。
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05 28 〔1065〕
明治三十四年旧五月十六日、出口教祖をはじめ、上田会長、出口澄子ら役員信者十五人は、神命を奉じて出雲大社に参拝することになった。この参拝が済めば、何もかも神界の因縁がわかり、大望が成就するものだと役員一同は考えていた。
喜楽が役員たちの安易な考えをいさめると、彼らは自分に非常に冷淡になってしまった。教祖は行けばわかると澄ましたものであった。
海が荒れて船待ちをしていた加露ケ浜の旅館で、喜楽は夜中ごろに妙な夢を見た。自分が際限もなき原野に立っていると、東から大きな太陽とも月ともわからぬものが昇り、澄子の懐に入った。この月、すでに澄子は妊娠していた。
この夢を思い出して、この子は在朝在野の人々を済度する子になるだろうという考えとを重ね合わせ、長女を朝野と命名したのであった。朝野が四つになったとき、自分から直日だと言い出したので、直日と呼ぶようになったのである。
神社に参拝をなして、ご神火、清水、お砂をいただき、またもや山坂を越えて旧六月四日に福知山まで戻り、数百人の信者に迎えられ、ようやく綾部に帰ってきた。
それから百日間は埋み火として役員二人が昼夜保存し、天照大御神様にささげることになった。お砂は本宮山や竜宮館の周囲に散布し、清水は三四か所の井戸に注いだ。大島の井戸へは天の岩戸の産盥の水と一緒に注ぎ、金明水と名付けたのである。
その水と沓島詣での際に海に投じ、この水が世界中を廻った時分に日本と露国の戦争がおこる、大難を小難にまつりかえてもらうよう竜神様にお供えする、と祈願をこめた。それからちょうど三年目に日露戦争が起こったのであった。
出雲参拝後は教祖の態度ががらりと変わり、会長に対して非常に峻烈になってきた。また会長に対して反対的の筆先も出るようになってきた。それまでは役員が反対しても弁護に回ってくれていた。
澄子が妊娠したので、もはや厳しく言っても出ていく気遣いはないと思われたからであろうと思う。明治三十四年には、会長が変性男子に敵対したといって弥仙山に隠れ、海潮と澄子は非常に苦心した。
しかし初めて播州の神島へ行って神懸りになり、今まで自分の会長への考えが間違っていたとおっしゃられ、例のお筆先まで書かれたのである。
今日までの経路を述べれば際限がないが、霊界物語を後述するに当たり、大本の大要を述べておくのもあながち無用ではないと信じ、ここにその一端を古い記憶から呼び起こして述べることとした。
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