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霊界物語あらすじ

説明を読む
ここに掲載している霊界物語のあらすじは、東京の望月氏が作成したものです。
まだ作成されていない巻もあります(55~66巻のあたり)
第73巻 天祥地瑞 子の巻 を表示しています。
篇題 章題 〔通し章〕 あらすじ 本文
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01 00 - 本文
01 01 〔1832〕
スの活動=天之峯火夫の神
ウの活用から宇迦須美の神が生まれた。
本文
01 02 〔1833〕
宇迦須美の神の活動からオの言霊が生まれた。
オの神格化=大津瑞穂の神
宇迦須美の神が高く昇って天津瑞穂の神を生んだ。
大津瑞穂、天津瑞穂の両神が見合った。
タ=高鉾の神、カ=神鉾の神が生まれた。
高鉾の神が大虚空中を駆け巡り、神鉾の神がカのこと霊の光を輝かせた。
高鉾の神は左回りに旋回し、神鉾の神は右回りに旋回した。これによって、円満晴朗なる宇宙が形作られた。
両神のはたらきは、無限大の円形を形作った。この円形の活動がマの言霊であり、天津真言の大根源はマの言霊から始まった。
高鉾の神(タ)と神鉾の神(カ)が宇宙に現れた形を「タカア」と言い、両神が宇宙を形成した活動が「マ」である。=>「タカアマ」
タカアマの言霊が際限なく虚空に広がって果てしない様がハの言霊=速言男の神となる。
高鉾・神鉾の神は、速言男に大宇宙完成を命じる。速言男の神は右に左にぐるぐると廻り、また鳴り響いて、螺旋形を形作った。=ラの言霊が生まれた。
高鉾・神鉾の神の活動(タカア)、両神による宇宙の形成(マ)、宇宙が果てしなく広がって速言男の神が誕生し(ハ)、速言男の神が螺旋形を形作って宇宙が完成した(ラ)。
タカアマハラの6つの言霊によって、無限絶対の大宇宙が形成された。ついで、無数にある小宇宙が形成された。そして、清く軽いものは霊子の源となり、重く濁ったものは物質の源となった。
ここまできて、ようやく天地の基礎ができた。速言男の神以前は、霊界のみがあったが、タカアマハラの六言霊によって、ようやく天界における物質の素ができた。それから天地ができて分かれるまで、さらに数十代の神々がある。この時代が、「天の世」である。
タカアマハラの六言霊は鳴り鳴りて鳴り止まず、その活用から大虚空に紫微圏というものが現れ、次第に水火を発生して光を放った。その光が一所に凝結して無数の霊線を発射し、大虚空が紫色に輝く、紫微圏層の世を創った。
ついで蒼明圏層、照明圏層、水明圏層が現れ、最後に生成圏層という断層が発生した。これらの圏層の広さ・高さは測ることの到底できないほどである。
本文
01 03 〔1834〕
主の神は、高鉾・神鉾の神に高天原を造らせた後、南に廻り中央に集まる言霊を生んだ。北に廻って外を統べる言霊を生んだ。東北に廻って万有の極限となった。そして、どんなものでも生み出すことができる力を生んだ。
この言霊は至大天球の内外あらゆるところを守り、浸し、宇宙の水火(いき)となり柱となり、八方に伸び極まり続けた。
この力は宇宙全体を統括し、宇宙の内部を開き、至るところに貫きとおった。無限に澄んで澄み切った。そして吹く水火(いき)吸う水火(いき)の活用によって全方位を統率した。
以後の諸神は、この力を継承して高天原の中心である紫微圏層に居を定めた。神々は一種の水気を発射して雲霧を作り、また火の元子を生んで紫微圏層をますます清く麗しく澄み切らせた。
神々は、狭依男の神を生んで、紫微の霊国を開かせることによって、清く麗しいことこの上ない神の居所が開かれた。
狭依男の神はまた、天之高火男の神とも言う。
天之高火男は天之高地火の神と共に天の世をつくり固めた。また、たびたび蒼明圏層に下って、天津神の住処を開こうと、星界を生んだ。
天之高火男・天之高地火の神はタカの言霊によって天界の諸神を生み、また荘厳な紫微宮を造って主神の霊を祭った。紫微圏界の神々は次第にその数を増して数百の神人となり、圏層の霊界建設に奉仕した。
紫微圏層の霊界を天極紫微宮界と言う。常にタカの言霊を輝かせ続けて、鳴り止まぬ言霊の元子が終に七十五声の神々を生むにいたった。
本文
01 04 〔1835〕
天の世はあらゆる性質を含有して極まった状態にして、また純々とした状態であった(本文の神代の言葉による記述参照)。
このすべての状態を一言に表して スという。
だから、スの言は七十五声の精霊を完備していて、しかも各々の声がその真の位を保っているのである。
真の位とは、すべての声がお互いに向かい合って、遠きも近きもことごとく、「返対力が純一に密合の色を保ちて実相しつつ、」とてつもなく大きく極まってつねに張り詰め、活気は内にみなぎって四方に散らばっている。
いわば、とてつもない大きさに立ち込めこもった気が、鳴り起とうとしている。一見深く静かに澄んでいるが、内には神機を含み蔵している、その時の状態である。
スは皇(スベラギ)の極元である。
本文
01 05 〔1836〕
速言男の神は紫微宮圏の世界のよろずの神々を指揮して修理固成をなし、永遠に天の世界の経綸に全力を尽くした。
そして、造化三神と四柱の神の宮殿を造った。造化三神とは、天之峯火夫の神、宇迦須美の神、天津日鉾の神である。四柱の神は、左守として大津瑞穂の神、天津瑞穂の神。右守として高鉾の神、神鉾の神。
宮殿の造営は、霊力体(ひと、ふた、み)の三大元によって霊の御柱を造り、この柱を四方に建て並べ、その上に霊の屋根で空を覆った。
これが、天極紫微宮である。
紫微宮が完成すると、霊力体の三元は、スの言霊の霊妙な力によって、巨大な太陽を出現させた。大虚空中に最初の宇宙が生まれ出た瞬間である。
紫微宮天界の神々は集まり来たって、大宮造営完成の祝の歌を歌った。
速言男の神が紫微台上に上って天の数歌を繰り返し謡うと、大音響が四方に起こって紫微宮天界が振動し、紫の光が四方を包んだ。
太陽の光は光彩を増して、現在の世界にある太陽より七倍ほども強い光で輝いた。
速言男の神は天の数歌を終わると、紫微台の高御倉に端座し、目を閉じて天界の完成を祈った。
速言男の神の左守神、言幸比古の神は、紫微宮を祝して七十五声を縦にのり上げた。すると天界はますます清らかに明らかに澄み切り、ウアの神霊元子(コエノコ)が大活動をはじめ、一瞬に千万里を照射した。
次に右守の言幸比女の神は、七十五声を横に謳った。八百万の神々はこれに唱和してタカタカと拍手をなし、喜んだ。
日高見の神は、これまでの世界創造を祝歌に歌った。
本文
01 06 〔1837〕
次に、言幸比女の神が、スの言霊の誕生から、次第に七十五声の言霊が生まれてくる様子と、各言霊のはたらきを、三十一文字の歌に歌った。
これによって、七十五声の言霊のすべてが、言幸比女によって説き明かされた。
本文
01 07 〔1838〕
この章では、天之高火男、天之高地火の二神が、紫微圏界の霊的国土経営のため、紫微圏界の中央に位置する、紫天界を修理固成するさまの大略を述べる。
ウの言霊の力によって、天之道立の神は、四柱の神に昼と夜の違いを作らせ、守らせた。すなわち、日照男の神が日中を、戸隠の神が夕、玉守の神が朝、夜守の神が夜、である。
紫微圏界では、夜でも明るいのだが、意思想念の上で、昼夜朝夕の違いを感じ取るのである。
天之道立の神が諸神を従えて数千万億里の霊界を造り固めたが、その結果として、燃える火から黒煙が立ち昇るように、濁った気が凝り固まって、美醜善悪の区別が次第にできてきた。
それというのも、宇宙一切のものは、霊にも体にも表裏があるのであって、善悪美醜が交わり合って後にこそ、確固不動の霊物を創造することができるのである。
天之道立の神はさまざまな神事を行って紫天界を固めて行ったが、次第に妖邪の気があちらこちらに発生してきた。
そこで、天之道立の神は、紫微宮に朝夕詣で、神前に神嘉言を奏上した。
太祝詞を唱えるごとに、紫微宮の紫金の扉が清清しくキーキー、ギーギーと開け放たれ、キの言霊、ギの言霊によって四方の曲津を斬り清めた。
しかし、一日でも神嘉言を怠ると妖邪の気が湧き出でて世を曇らせたのであった。
ここに天之道立の神は朝夕わかちなく神を祭り、言霊をのり上げることとなった。これが、太祓ひの道の開き初めである。
本文
01 08 〔1839〕
天之道立の神が大幣を振っていると、紫微天界の西南より、一柱の神がやってきた。その姿は、百有余旬の大鰻の姿であり、肌は滑らかで青水晶のようであった。
この神は、太元顕津男の神であり、紫微圏界創造の初めより、大虚空の西南で神業を行っていたのであった。
太元顕津男の神は、西南の空の修理固成を終え、次なる神業を紫微宮の前に額づいて問うた。
すると、高鉾の神、神鉾の神が命じて言うのに、「東北万里の国土に高地秀の峯という、主の神出生の聖地がある。ここにいって紫天界の経綸に従事するように」とのことであった。
善悪美醜が分かれるにつれて妖邪の気が群がり起こっていく現状に、太元顕津男の神は、高地秀の大宮で百日百夜祈ったところ、主の神の託宣があった。
曰く、「汝はこれから、国生み・神生みの神業に仕え、その御樋代として八十の比女神を従わせよう」
この神業は、汚れのない太元顕津男の神に国魂の神々を生ましめて、純粋なる神の種を広めることによって、国の守りとしよう、という主の神の御心だったのである。
記者注:御樋代とは、伊勢神宮において御神体の鏡を奉安する台のことであるが、ここでは太元顕津男の神の種を宿し、また国魂神として各地に奉安するという、比女神の役目を指していると思われる。もちろん、ここで使われている言葉が、もともとの意味であろうが、我々は現在使われている言葉の意味から、元の意味を推測することしかできない。
本文
01 09 〔1840〕
天之峯火夫の神は、紫微宮の庭にある香具の木の実八十個に呼吸(いき)を吹きかけた。すると、木の実から高野比女の神、寿々子比女の神らをはじめ、八十柱の女神が成り出でた。
太元顕津男の神は、高野比女の神と夫婦となって、高地秀の宮に鎮まった。そして水火の呼吸を組み合わせて雲を生み、雨を降らせて天界に湿りを与え、万物を発生させ、稲、木の実を実らせた。
これが、大嘗の神業の完成である。
顕津男の神は、ほかに宇都子比女、朝香比女、梅咲比女、花子比女、香具の比女、小夜子比女、寿々子比女、狭別の比女を近くにはべらせた。高野比女をあわせたこれらの女神が、八柱の女神である。
この他に七十二柱の比女神を紫微宮界の東西南北に配置して御樋代となした。
本文
01 10 〔1841〕
太元顕津男の神は高野比女の神を正妃と定め、祝詞を奏し、主の大神の神業の達成を誓った。その祝詞中には、世界最初のいろは歌が歌われていた。
次に、高野比女は婚ぎの神祝言を歌った。その中には天之数歌が含まれていた。
婚ぎの祝に集まった神は、遠津御幸の神、片照の神、魂之男の神、日之本(すのもと)の神以下、十六柱であった。そのうち、遠津御幸の神が祝の歌を歌った。
註として、太元顕津男の神の最初のいろは歌の言霊解が示されている。いろは歌の元は、紫微宮の昔に由来し、空海はそれをもとに平仮名文字を作り出した。いろは歌の各言霊は婚ぎのさまざまな局面をあらわしてはいるが、それのみではなく、宇宙万有一切の発生の真理を歌ったものである。
また、高野比女が歌った天之数歌も注解されている。
本文
01 11 〔1842〕
天之道立の神は、主の大神の命によって紫天界の西の宮居の神司となった。そして、あまねく神人の強化に専念し、天津誠の教えを説き諭した。
一方、太元顕津男の神は、東の高地秀の宮の神司となり、右手に剣、左手に鏡をかざし、霊界における霊魂・物質両面の守護に任じられた。
天之道立の神は個別の神々の誠について教え、太元顕津男の神は宇宙万有に対しての教化をつかさどっていた。天之道立の教えは平易にして耳に入りやすいものであったが、太元顕津男の教えは、範囲が広大で小事に関わらないため理解しがたく、結果、配下の神々の中からも反抗者が現れてきた。
この状況を顕津男の神は嘆いて三十一文字の歌を歌った。
曰く、厳霊である西の宮(天之道立)の教えは凡神の耳に入りやすく、東の宮(顕津男)の教えは悟り難い。
自分が八十柱の比女神を従えていることを、国魂神の神業を理解しない凡神たちは非難している。
それどころか、自分の身近にいる八柱の比女神の中にも、主の神の経綸を知らない者がいる。
罪汚れのないと思われた天国にも、怪しいことに醜神が現れ出した。私は惟神真言の道を行き、邪神の荒ぶる世に勝とう。
本文
01 12 〔1843〕
大宇宙間に鳴り止まないス声によって、火と水の物質が生み出された。火と水は、スの言霊によって生み出されたものだが、火の性質は横に流れ、水の性質は縦に流れるものである。
したがって、火は水の力によって縦にのぼり、水は火の横の力によって横に流れるのである。
火も水がなければ燃えることができず、水も火の力がなければ流れることができずに氷となってしまう。天界の光彩・炎熱も、内に内包する水気の力によっている。
紫微天界の大太陽は炎熱猛烈であったため、太元顕津男の神は高地秀の峯にのぼり、幾多の年月、生言霊を奏上した。すると、その言霊が宇宙に凝って、大太陰が顕れた。
大太陰は水気多く、内なる火の力によって輝き、天界の神人を守った。
天之道立の神は大太陽を機関とし、太元顕津男の神は大太陰を機関として経綸を行い、ここに天界は火水の調節ができて、以前に勝って栄えた。
太元顕津男の神は大太陰界に鎮まって至仁至愛(みろく)の神と現われた。
至仁至愛(みろく)の大神は、数百億年を経た今日までも、若返り若返りつつ宇宙一切の天地を守っている。また、地上の危機にあたって瑞の御霊の神霊を肉の宮居に降し、更生の神業を託したのである。そして、神代における活動そのままに、迫害と嘲笑との中に終始一貫尽くし給う。
大太陽に鎮まる大神を厳の御霊と言い、大太陰界に鎮まって宇宙の守護にあたる神霊を瑞の御霊という。
厳の御霊、瑞の御霊二神が接合して至仁至愛(みろく)神政を樹立した神の名を、伊都能売(いづのめ)の神という。
紫微天界より数億万年の今日に至って、二神がようやく伊都能売の神として現われ、大宇宙の中心である現代の地球の真秀良場に現れ、現界に身をおいて宇宙更生の神業に尽くす世となったのである。
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01 13 〔1844〕
太元顕津男の神は、御霊を月界にとどめ、肉体は高地秀の宮に仕えて神の経綸を遂行していたが、厳の御霊の教えを誤って信じた凡神は、種々あらぬことを言いふらして顕津男の神を力限りに妨げた。
太元顕津男の神は高地秀の峰に登り、自分が救おうとしている神々から救いの業を妨げられ、大神の経綸を果たせないでいる苦悶の心を、述懐の歌に歌った。
また顕津男の神に仕える八十柱の比女神たちも、いたずらに時を過ごし老い去り、その間にも世はますます曇りすさんで、天界も邪神のために収拾がつかない状態になってしまった。
顕津男の神に側近く仕える八柱の比女神たちもまた、顕津男の神に対しての述懐を三十一文字の歌に歌い、顕津男と歌を交わした。
寿々子比女、朝香比女、宇都子比女、梅咲比女、花子比女らは、凡神らの妨げによって顕津男の神との契りがずっとできないでいることを嘆き、顕津男を責めながらも、顕津男の神への思慕の念を歌い、妨害を打ち破るよう顕津男を励ます。
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01 14 〔1845〕
続いて香具の比女、狭別の比女、小夜子比女が述懐歌を歌った。
こうして、八柱の比女神は日ごろの思いのたけを打ち明けたことにより、心が清清しく改まった。そして、天の刻が至るのを待つこととなった。
本文
02 00 - 本文
02 15 〔1846〕
水火自然の働きとは
火は水の力によってこそ、高く燃え立ち上がり、熱と光を出すことがきる。
また、水は火の力によって、横に流れ、低いほうへ移動する。
火の力がなくなれば、水も高く上って直立不動となってしまい、力がなくなってしまうのだ。
だから、霧、雲、雨となって国土を潤す水の霊能も、火の力があってこそ可能なのである。
天之道立の神=火を本性として現われた厳の御霊、紫微の宮に永遠に鎮まり、経の教えを述べ伝う。
太元顕津男の神=水気の徳が、あらゆるものに染み渡り、万有を潤す。そうやって徳を顕す、という御神名。ゆえに、高地秀の宮に鎮まって、四方の神々・国土を潤す職掌にあたる。
いずれも、水火の働きに則ってそれぞれに、その役割がある。
したがって、太元顕津男の神に八柱の比女神を仕えさせ、国生みの神業を与えたのも、天地経綸の基礎なのである。
諸神の無理解に、太元顕津男の神は天之道立の神に相談に行くが、かえって紫微宮の神々は、太元顕津男の神の行動を裁く。
太元顕津男の神は高地秀の宮に帰り、ひとり月夜を歩いて、白梅の花が香る栄城(さかき)の山に横たわった。
顕津男の神は、栄城山の山頂に上って、日月両神を拝し、天津祝詞を奏上して、神業の完成を祈った。
その言霊はたちまち天地に感動し、紫微天界の諸神はたちまち集い、つつしみかしこみ、顕津男の神の祝詞に聞き入った。
天の峯火夫の神が主の言霊の神水火(みいき)をうけて現われ、紫微天界をはじめとして、四層の天界を造った。
天之道立の神に霊界をゆだね、顕津男の神を東の高地秀山に下らせ、宮を建てて仕えさせた。
そこへ、主の大神より、あらゆる国を治める国魂神を生むようにと、八十柱の比女神を下した。
諸々の神たちよ、どうか、主の神の神言を受けた私の言葉を聞き流さず、私の神業を助けてください。
天津真言の言魂をもって、心の丈を告げる次第です。
諸神たちはただただひれ伏して、合掌するのみであった。主の神の言霊が四方に響き渡り、微妙の音楽鳴り渡り、迦陵頻伽(かりょうびんが=人頭・鳥身の極楽の鳥)は白梅の枝に集まり来て美しい声を放ち、鳳凰は上空をゆうゆうと翔けまわった。
大御母の神は、多数の神々と共に数百頭の麒麟を率いて現われ、顕津男の神の門出を祝した。
顕津男の神は、麒麟にまたがって山路を下り、他の神々たちはあるいは麒麟、あるいは鳳凰に乗って従った。
大太陽の光はますます強くなり、大太陰は慈しみの光を放って清涼の気を送り、炎熱調和して、
本文
02 16 〔1847〕
太元顕津男の神は、大御母の神をはじめとする諸神に見送られて、神生み国生みの旅に出発した。
東北に向かって進んでいくと、前途にはるかに高くそびえる美しい山があった。山頂より紫の雲気が立ち上り、まばゆいばかりに輝いている。
顕津男の神が霊山を望む歌を歌うと、大御母の神は、あの高照の山は我が住処である、と歌った。
顕津男の神は威儀を正し、もろ手を打ち合わせ、タカの言霊を鳴り出でて礼拝をした。
続けて、足元を流れる天の八洲河の清泉を褒め称えた歌を歌った。
大御母の神に続いて、諸神たちは天の八洲河を越えて東の岸に着いた。
大御母の神は麒麟にまたがったまま、声さわやかに歌った。
天の八洲河をやすやすと渡った顕津男の神の雄雄しき姿かな。
この河を流れる真清水は、遠き宇宙の初めより、紫微天界の「司の河」といわれており、恵みの露を流し、世の雲霧を払い、百の罪とがを洗うもの。
この真清水は、主の神が、瑞の御霊に与えた生命の水である。
顕津男の神よ、この真清水を心とし、この清流を教えとして、四方の神々をもれなく救え。
いざこれよりは、高照山の尾の上に駆け上り、宮居を建てて、主の大神の経綸に仕えよう。諸神よ、急げ。
こうして、大御母の神は真っ先に山を指して急ぎ行く。
本文
02 17 〔1848〕
高照山の聖地を指していくと、途中の小川に、禊をしている美しい比女神がいた。
顕津男の神が名を問うと、八十柱の比女神の一人、如衣比女(ゆくえひめ)であるとわかった。
如衣比女は顕津男の神への想いのたけを歌うが、顕津男の神は、諸神の目があること、聖地高照山への途上であることなどを気にして、承諾しかねている。
大御母の神はその様子を見かねて、顕津男の神の心は確かなので、ただ時がくるのをしばらく待つよう、如衣比女に歌い諭す。
如衣比女は、大御母の神の歌に感謝し、三頭の銀の馬を献上する。馬の名はそれぞれ、天龍、銀龍、須佐、といった。
顕津男の神が天龍に、大御母の神が銀龍に、如衣比女が須佐にまたがり、高照山の聖場に向か
本文
02 18 〔1849〕
大御母の神からの知らせにより、経綸の神々は、高照山麓の聖地、高日の宮に集まって、顕津男の神の降臨を待っていた。
神々の中より選ばれて道の辺に一行を待ち迎える神は、眼知男の神、またの名を目の神といった。目の神は、花の咲きにおう原野の十字路にて、味豊の神、照男の神を従え、顕津男の神一行の来着を待っていた。
顕津男の神がやってくると、目の神は喜びの歓迎歌を歌い、顕津男の神は旅の来歴を歌った。
高照山の大高原を進む一行に、万の神の歓呼の声が高く響き、道の両側に跪いて顕津男の神一
本文
02 19 〔1850〕
太元顕津男の神が高日の宮にやってきてみれば、そこは常磐の松が繁り栄え、庭には白砂、木陰に七色の草花が咲き乱れ、荘厳さ麗しさはたとえるものもないほどであった。
明晴男の神、近見男の神たちが出迎え、駒のくつわを取り、歓迎の歌を歌った。
顕津男の神、如衣比女の神は、大御母の神のはからいでこのような美しい所に留まることができ、喜びの歌を歌った。
目の神は、顕津男の神の来臨によってもたらされる福音の喜びを歌い返した。
顕津男の神は八尋殿に導きいれられる。大御母の神は、この八尋殿は顕津男の神が永遠に鎮まり、如衣比女とみあって国造りをするために建てさせたものだと歌う。
ここに、顕津男の神と如衣比女の神は婚ぎの式を行い、八十年の間、この宮居に鎮まった。
本文
02 20 〔1851〕
太元顕津男の神は、高日の宮の八尋殿に、天之御柱、国之御柱をみたて、右り左りの神業を行い、如衣比女の神を呼ばい、婚ぎの神業を行った。
まず、大御母の神が寿ぎ言を歌い、それに対して顕津男の神と如衣比女の神が感謝の歌を返した。
続いて眼知男の神、明晴の神が祝歌を歌った。
如衣比女の神が感謝の歌を返し、最後に近見男の神が寿ぎの歌を歌った。
本文
02 21 〔1852〕
顕津男の神、如衣比女の神は、高照山の滝にて禊をしようと館を出、滝の下にやってきてみると、水音は轟々として千丈の高さから落ちくだり、あたりは滝しぶきの霧で真っ白く、近づきがたい荘厳さであった。
如衣比女の神はその様子に呆然とし、驚きの歌を歌った。顕津男の神は、滝の荘厳さに神の心を見、己を戒める歌を歌った。
大御母の神、明晴の神、近見男の神は両神を追ってやってきた。そして、滝のすばらしさをたたえる歌を歌った。
如衣比女の神、続いて顕津男の神は滝の下に進んで禊をなした。
明晴の神、近見男の神が禊の様子をたたえる歌を歌う間に、顕津男の神は滝壺から出、滝壺の深さから主の神のふかい心をたたえた。また、如衣比女の神も滝壺から浮かび上がり、滝壺の底をくぐって主の神の清き心をたたえる歌を歌った。
本文
02 22 〔1853〕
顕津男の神は、如衣比女の神と共に朝夕、滝に禊をなし、日を重ねるうちに御子を授かった。御子の名は美玉姫の命と名づけられた。
国魂神の誕生に、紫微天界の諸々の神たちは、高日の宮に集まって来て喜びを表した。八尋殿の庭に踊りの輪を造り、大物主の神が先導して声朗らかに歌えば、神々は手拍子足拍子を取って、喜び踊った。
続いて大御母の神は寿ぎの言霊歌を歌った。顕津男の神は両神の寿ぎの歓び、返歌を歌った。美玉姫の命を国魂神として育んでいく所信を歌った。
如衣比女の神が産屋から出て、御子神誕生の喜びを歌い、最後に明晴の神が祝歌を歌った。
本文
02 23 〔1854〕
言霊の水火(いき)より成り出でた神霊を神といい、神と神との婚ぎによって生まれた神霊を命という。これより後、「神」と「命」の名によって、それぞれを判別することとする。
善悪相混じ、美醜互いに交わる惟神の経綸によって、高照山の谷々にも、妖邪の気が鬱積して、邪神が現われ始めた。
天界、天国といえども、至善・至美では宇宙の気が固まらず、万有は生まれてこない。糞尿によって土が肥沃になり五穀が豊かに実るように、醜悪の結果は美・善となる。
ただ善悪の活用の度合いによって、その所と名を変ずるのみである。この宇宙には絶対的の善もなく、絶対的の悪もない。これが惟神の自然の大道である。
あるとき、如衣比女の神は、高照谷の中津滝に禊をしようと出かけた。鬱蒼として険しい岸壁を伝って行く道なので、眼知男の神は安否を気遣い、ひそかに遠く女神の後から従った。
如衣比女の神は滝の荘厳さをたたえる歌を歌って滝壺に飛び込んだが、猛烈な渦に巻き込まれて水底深く沈んでしまった。
眼知男の神は急いでやってきて、天の数歌を歌い、厳の言霊を宣りあげた。
すると、滝壺から頭に鹿のような大きな角を生やした大蛇が、如衣比女の神をくわえて現れた。眼知男の神は驚き、厳の言霊を繰り返しつつ大蛇の帰順を主の神に祈った。
如衣比女の神は、大蛇にくわえられながら、眼知男の神に、自分は大蛇に呑まれて先に主の大神の御許に行くが、このことを夫に伝えてくれ、と頼んだ。
眼知男の神の言霊もむなしく、大蛇は比女神をくわえたまま水中に姿を隠してしまった。
眼知男の神は愁嘆やるかたなく、悄然として高日の宮に帰り着いた。
本文
02 24 〔1855〕
眼知男の神は太元顕津男の神に一部始終を復命する。顕津男の神は、このことは主の神言によって事前に知っており、比女神は美玉姫の命を産んで神業を果たし、主の神の元に帰ったと歌い、眼知男の神を慰める。
続いて、滝の大蛇を言向けて、天界の災いを払わずにはおれない、と決意をあらわにする。
顕津男の神、大物主の神、眼知男の神が奥殿深く入っていくと、そこにはすでに御霊代が祭壇の上に納められていた。顕津男の神はあらかじめ主の神にこの遭難を知らされていたのである。
眼知男の神、大物主の神は、何事も主の神の定めとして過去を嘆かず、如衣比女の神の冥福を祈り、美玉姫の命に仕えていく心を歌う。顕津男の神も、弔いの歌を歌う。
神々は如衣比女の神の昇天を聞いて駆けつけ、各々弔いの歌を歌った。
最後に真澄の神は、滝の大蛇の言向けを提唱した。神々はみな一同賛成し、中津滝に向かって
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02 25 〔1856〕
紫微天界の高照山は、仏教で言う須弥仙山であり、スメール山または気吹の山とも言う。高地秀山は、またの名を天の高日山といい、高照山に次ぐ高山である。
高照山の高さは三十三万尺、周囲は八千八百里、川の数は五千六百七十条ある。そのうち、もっとも深く広く、当方に向かって流れているのが日向河(ひむかがわ)であり、南に向かっているのが日南河(ひなたがわ)、西に向かっているのが月の河、北に向かうのがスメール河、またの名を高照河という。
一方、高地秀山の高さは三十万尺、東に東河、南に南の大河、西に西の大河、北に高地秀河が流れ、紫微天界の大洋に注いでいる。
高地秀山は、スメール山に比べて岩石が多く、険しい姿をしている。どちらも、常に七色の雲がただよい、神霊の気が山を包んでいるが、あちこちの谷間には邪気が鬱積して邪神が現われ、ついに中津滝の大蛇のような曲神が現われ出でた。
太元顕津男の神は高日の宮にとどまって如衣比女の神を弔い、大御母の神一行は大蛇を言向け和すべく、滝に向かった。
顕津男の神はまた、大御前に端座して、一行の無事と成功を祈った。
大御母の神一行は滝に着くと、滝壺の周囲に整列し、それぞれが言霊を宣りはじめた。
大物主の神の言霊により、大蛇はその苦しそうな姿を水底より現した。眼知男の神が万の神たちの力を得て言霊歌を宣ると、大蛇は滝壺を紅に染め、のたうちまわっている。
明晴の神の言霊に、大蛇は腹を翻して浮き上がり、黒い毒気を吐いた。あたりはたちまち暗夜のように暗くなってしまった。
近見男の神が邪気を払うため、言霊歌を歌い、科戸比古神に祈願すると、科戸の風が吹き荒れ、黒い毒気は跡形もなく散り失せてしまった。
大蛇は血潮にそまりつつ、滝壺の底に再び潜んでしまった。
真澄の神は、言向けの言霊歌を歌った。真澄の神は、言霊をやわめ、我が言を悟って帰順すれば命を助けよう、と歌った。
すると、大蛇は優しい姿になって水面に浮かび上がり、両眼に涙を流し何度も頭を下げ、たちまち高照山のいただきに向かって、天高く逃げていった。
神々たちは、真澄の神の言霊の愛善の徳に感じ、おのおのに真澄の神を称える歌を歌った。
中津滝の大蛇は、諸神の言霊に打たれて、よみがえりつつ天高く立ち去っていったのである。
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03 00 - 本文
03 26 〔1857〕
高照山の中津滝の大蛇は言向け和されたが、依然として妖邪の気は谷々を覆い、害が激しくなり始めた。
顕津男の神は、高日の宮に神々を集めて、国土平安の祈願を込めた。
顕津男の神が祝詞を唱え終わると、たちまち高照山の峰より香ばしい風が起こって妖邪の気は払われた。紫雲がたなびき、月の光が晧々と照りだし、四辺に微妙の音楽が鳴り渡った。そして、八十の神々にかしづかれつつ、主の大神が天降りました。
高日の宮の神々は庭にひざまづいて主神を謹み敬い迎えた。顕津男の神は恭しく主神を高日の宮の至聖殿にお招きした。
顕津男の神は謹みのあまり声を震わせて、主神にご降臨を感謝する歌を詠んだ。
主神は厳然としてお立ちになり、左手に玉、右手に幣を左右左に打ち振りながら、天界の曇り、乱れ、曲神たちの出現はすべて、言霊の濁りより生じていることを諭すお歌を詠い、そのままお姿をお隠しになった。
顕津男の神は、朝夕の言霊に濁りがあったことを悔いた。国生み神生みの神業でありながら、如衣比女への私的な恋心を起こして心が濁っていたこと、そして今後は自分の名誉を捨ててただ神命に応えていくことを宣言した。
諸神はそれを聞いておのおの、神業を妨害したことを悔いた。
ここに、「国生み神生み」が主神の神業であることが明らかとなり、またそれを臆せずに遂行していくことを、顕津男の神が宣言した。つまり、天界経綸発祥の基礎となったのである。
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03 27 〔1858〕
国生みの神業とは:荒れ果てた国土を開拓し、神々の安住すべき土地を開くこと。
神生みとは:国魂神=国をつかさどる清く正しい神魂として、御子を生むということ。
国魂神が国をつかさどらなければ、神々は強い者勝ちの気分を起こし、収拾がつかなくなってしまう。
御子生みは、男神と女神の真言の言魂の水火(いき)同士を融合調和させ、それに応じて神霊が胎内に宿り、御子が生まれるのである。これは言霊による神示の神業であり、一夫多妻ではない。
一切万有に対するのが愛であり、これに対してある一つのものに焦がれるのが恋である。
現代においても、神人はかく言霊の接合によって御子生みの神業を為すことができる。ただ、言霊の影響は、一般の妊婦に対しても及ぶので、現代人も朝夕、善言美詞を奏上し、清く赤き真言の心を心がけるべきである。
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03 28 〔1859〕
ここに、顕津男の神は、これからはいかなる批判にもはばからず神業を遂行することを現そうと、斎戒沐浴し、誓いの祝詞を唱えた。
神々は顕津男の神に、心の大蛇を切って先に進んでほしいと歌を詠った。
顕津男の神は、如衣比女の命を奪った大蛇は、顕津男の神自身の暗い心であったと宣し、中津滝の滝壺に身をひたし、自らを戒める歌を詠った。
こうして顕津男の神は七日七夜の禊を修し、国魂神・美玉姫の命の養育を大御母の神に預け、神々を率いて東の国原を目指して高照山を後にした。
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03 29 〔1860〕
顕津男の神は、大御母の神、眼知男の神、味豊の神、輝夫の神を高日の宮の神司と定めた。
一方、大物主の神、近見男の神、真澄の神、照男の神を伴って(次の章では明晴の神も加えて五柱になっている)、天の白駒にまたがって旅立った。
大御母の神は、美玉姫の命を主の大神の御霊と崇め奉り、その成人を待っていた。大御母の神は、眼知男の神、味豊の神を伴い、花の咲きにおう野原に美玉姫の命と野辺遊びをはじめた。
味豊の神は、無花果の実を腕いっぱいにもいで、美玉姫の命の前に捧げ置いた。姫はその中の一つをとって口に入れると、たちまち背は高く伸び上がり、成人してしまった。
大御母の神、味豊の神は感嘆のあまり、喜びの歌を詠った。
美玉姫の命は詠った:自分は月の世界より生まれたので、成長が早いのだ。また、月の露を浴びて育った無花果が自分の体を生かす食べ物である。これより、高日の宮の司となろう、と。
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03 30 〔1861〕
顕津男の神は、大物主の神、真澄の神、明晴の神、近見男の神、照男の神の五柱を伴い、東の国への途上、日向(ひむか)河の流れにさえぎられ、一行はどうやって渡ろうかと思案にくれている。
すると、日向河を左右に割って、白馬にまたがり現れた女神があった。河守の女神は一行に敬意を表し、六頭の天の白駒を献上した。
一同がそれぞれ感謝の歌を詠うと、女神は自分は河守比女であり、顕津男の神が河を渡ると聞いて、馬を用意して待っていた、と明かす。
一行は河守比女が割った河を渡り、森の中にある比女の館に招かれた。
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03 31 〔1862〕
河守比女の館は、四方に青芝垣をめぐらし、常磐木の松が枝を伸ばし、楠の木は天をつくようにそそり立ち、清清しさに満ち溢れていた。
一行は館のすばらしさを称える歌を詠った。
顕津男一行は館の別殿に休息することとなった。
すると、河守比女は顕津男の神の正面に座り、笑みをたたえながら、実はこの館は自分のものではなく、八十比女の一人、世司比女のものであることを明かす。
顕津男の神はこのようなところに八十比女の一人がひそんでいたことに驚く。次の間より、世司比女は顕津男の神に相聞の歌を送り、姿を現した。
河守比女は場を退いた。あとに顕津男の神と世司比女の神は言霊による神生みを行うと、世司比女はたちまち御子神をはらんだ。
顕津男の神は、御子神誕生まで館に留められ、その間国津神々を招いて、教えを講じた。
顕津男の神に付き従う五柱の神々は、神業がつつがなく進んでいる喜びを歌に詠った。
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03 32 〔1863〕
顕津男の神はこの平原一帯を東雲(しののめ)郷と名づけた。そして、世司比女と共に、比女の館、玉泉郷の庭園を散歩し、東南の隅に建てられた三層の高殿に登って四方を見渡し、国生み・神生みが順調に進んでいる喜びを詠った。
顕津男の神、世司比女の神は、国の形を見る歌を互いに交わした。
東雲の国は、常磐木の松、樟が生い茂り、花が咲き乱れ、白梅が常に香っている。また無花果が常に実っている。
日向河が東北から流れ、国土は東南に扇形に広がっている。
高照山は南西にそびえている。
平原には濛々と湯気が立ち上っている。
日が暮れてきたので、二神は高殿を降り、庭の玉泉の傍らに立ってしばし安らった。すると、玉泉は二柱の姿を鏡のように清らかに写した。
顕津男の神と世司比女は、夕暮れの泉に円満晴朗の月が写るのを見て、月の恵みをたたえ、またその結晶である御子神が宿った喜びを歌に交わした。
すると、大物主の神は静かに庭を進み来たり、御子神懐妊の喜びと、自分が御子の後見となってこの東雲の国に留まり仕えようとの心を、恭しく詠った。
各々、玉泉の傍らで述懐の歌を詠い終わり、館に帰っていった。
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03 33 〔1864〕
顕津男の神にしたがってきた五柱の神々は、それぞれ、顕津男の神の言葉(神言=みこと)によって、東雲の国での役割を与えられる。
大物主神は館に留まって顕津男の神を補佐する。
明晴の神は東、照男の神は西、真澄の神は北、近見男の神は南を廻って国を治めるよう、任命される。
神々はそれぞれ、顕津男の神の意に応えようと、旅立ちの前に決意の歌を歌う。そして、館に残る顕津男の神、世司比女の神、大物主の神、河守比女の神が見送りの歌を歌う。
四柱の神々は白馬にまたがり、勇ましく四方に旅立っていく。
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03 34 〔1865〕
顕津男の神は、世司比女との別れのときが迫り、比女やこれから生まれてくる御子の無事を祈って朝夕に禊をしていた。
世司比女は、せめて御子の誕生までとどまるよう、顕津男の神に歌いかけるが、顕津男の神はただ二人の安全を祈る歌を返すのみだった。
すると、世司比女は突然産気づき、姫御子を生んだ。顕津男の神をはじめ、王泉郷の神々は喜び、祝歌を歌った。
顕津男の神は、御子に日向(ひむか)の姫と名づけた。
顕津男の神は、大物主の神に王泉郷の一切をまかせ、世司比女に別れを告げて、ふたたび神生みの旅に出た。
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03 35 〔1866〕
顕津男の神は、王泉郷の館を立ち出でるにあたり、感謝と別れの歌を歌った。
世司比女、大物主、河守比女は旅立ちを名残惜しむ歌を歌うが、顕津男の神は別れの悲しみを振り払って立ち出でていく。
世司比女は玉泉の前にて述懐の歌を歌い、なおも高殿に上って顕津男の神が向かった南方をはるかにみつつ、顕津男の神を慕う歌を歌った。
そして一切をあきらめ、高殿を降りて玉泉に禊をした。以降、大物主、河守比女らとともに力を合わせて御子を育て、東雲の国をいつまでも守ることとなった。
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03 36 〔1867〕
顕津男の神は王泉郷よりはるかにやってきたが、再び大きな河に行く手を阻まれた。
するとそこへ、以前南に派遣した部下、近見男の神が、共を連れて顕津男の神を迎えにやってきた。
近見男の神は、荒ぶる神々を言向け和して共としていたのであった。近見男の神は真っ先に河にざぶんと飛び込むと、顕津男をはじめ皆が続き、向こう岸に渡りきった。
近見男の神と共の神々あわせて十一柱の神々が、顕津男の神に合流した。なかでもとくに背の高い神が、圓屋(まるや)比古の神と名乗った。
近見男の神、圓屋比古の神がそれぞれ行進歌をうたいつつ、白馬の一行は草原を南へ南へと進んでいった。
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03 37 〔1868〕
一向ははるか南にそびえる三笠山を望むところまでやってきた。一向は清清しい山の姿をたたえる歌を馬上に歌う。
近見男の神は、三笠山には八十比女神のひとり、現世(うつしよ)比女がいます、と歌う。
その日の暮れに、一向は三笠山の聖場、玉手(たまで)の宮に到着した。三笠山に来てみると、山には色とりどりの花が咲き満ちて、その麗しさは天国かと思うほどであった。
近見男の神は、玉手の宮で顕津男の神の到着を呼ばわると、宮を守る三笠比女が一行を出迎えた。一行は三笠比女に導かれ、館の主、現世比女に迎えられる。
顕津男の神は現世比女に導かれて奥の間にとおり、婚ぎの神業を行った。
現世比女には御子が宿り、一行が逗留するうちに姫神が誕生した。顕津男の神は姫を玉手姫と名づけた。そして、圓屋比古を司と定め、三笠比女に姫の養育を頼みおき、現世比女との名残を惜しみつつ、再び西南さして共の神々とともに進んでいった。
その道すがら、天之御中の神に合い、道中を共に進んで行くこととなった。
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